夢野京太郎の『世界赤軍』(昭48)は、林彪が「同士よ、火箭となって飛べ」とか何とか言うと、夢野が火箭となって京都大学の構内に落っこちて夢から覚めるところで終わる(確か、そうだった)。平岡正明がすごく解説で褒めていたのが記憶に残っている。すごくおおざっぱに言うと、当時でさえ、プロレタリアートの世界というのが何なのか分からなくなっており、――夢野(竹中労)にとっては、芸能界、というか魔圏のようなものとしてあった。それは確かに、ある種、いいところをついていたのだと思う。「寅さん」の周囲みたいなのが庶民である訳がないではないか。いわゆる「市民」だって、そんなもんひどく実際は猥雑なものであって……。
しかしまあ、夢野京太郎の小説はあまり読む気にはなれないのも事実であった。
先日、「フライト・ゲーム」という映画がテレビでやっていたが、娘に死なれ妻に去られた鬱でアル中の刑事が、航空保安官としてテロリストから乗客を救う話であった。「攻殻機動隊」とか「パトレイなんとか」とか、もっといえばウルトラマンや銭形平次とか同じく、秩序維持の話で、別になんということもないのである。しかし、小学校の先生ではないが、とりあえず「ちゃんとしましょう」と説教することの大事さというのもあるのである。このことを忘れると、またプロレタリアートが保守層と結託する野獣みたいに見えてしまうのではないかと思う。
最近の、公文書偽造だかのあれは、とにかくいろいろな意味で、「ちゃんとしてない」我々の姿がついに国家的に出てきてしまったというべきである。魔界とか伏魔殿とか、そういうもんではない。そんな大したものはない。しかし、だからこそ、我々はいい加減さを糊塗するために暴力を振るうようになるわけである。