「砂の器」は大昔にテレビ放映で観た覚えがある。今観てみると、明らかに通俗的映画であり、後半のこれ見よがしのコンサートのシーンがちょっと不自然――というか、なぜ作曲家が殺人までやならなければならなかったのかがやや不明瞭になっているのが気になった。原作を読んだのも大昔なのでうまく思い出せないが、この殺人の動機こそが松本清張ががんばって説明しようとしたところのような気がするし、一番われわれが触れられたくない部分だろうと思う。
対して、映画は、癩病患者であった父親との作曲者の放浪生活を、彼のピアノ協奏曲にのせて描出することにエネルギーを費やしている。いまこの音楽を聴くと、ラフマニノフのピアノ協奏曲をより映画音楽風に通俗化し、ジャズの風味も入れている曲で――なんとなく、「ああこういういろいろなところに忖度している曲をつくるようだから、作曲家は最後破滅してしまったのだ」と思わないではない。彼は文部大臣の娘と懇意になる事で自作のコンサートを実現しているようなやつであって、――いろいろな意味で権威への従属が彼の破滅を招いたというわけである。原作では、ヌーボーグループというスカした前衛芸術家グループがでてきて、犯人はそのなかの一人であり、しかも殺人トリックに電子音を使う。
とまれ、この映画の大成功は、このロマン的ピアノ協奏曲が描き出す、癩病患者への迫害のシーンのおかげであった。当時の観客は、自らが行っていたこと、すこしは受けたことのある社会的いじめをはっきりと思い出して呆然とし、感動もしたのであろう。つまり、我々が、ホントは知っていることを音楽付きの思い出みたいな風に悔恨すると、案外、感動しもするということを証したことにあったのではなかろうか。確かに、癩病問題をまともに告発したことの社会的意義は大きかったが、問題は常にそこにとどまるものではなかった。どうも清張と野村監督のコンビの映画は、戦前のやばい記憶のある種の浄化に貢献してしまったところがあるように思われる。我々の戦前や社会問題に対する扱いはその延長線上にあり、いまだに清張のドラマが盛んに映像化されていることには理由がある気がしてくる。
原作をほとんど忘れてしまったので……、なんとも言えないんだが、最後の文で、場内アナウンスが「音楽のように美しい抑揚」だったとか書いてあって、そこが不気味であり、しかしなんだか、軽いな……と思ってしまった記憶がある。
ところで、「ちはやふる」のピンク映画バージョンを考えたんだが、あまりのくだらなさに絶望したので、フーコーの思考集成11巻なんかを読んで、思考の禁欲を試みたわたくしであった。