★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無限の運動

2018-09-09 23:50:18 | 文学


埴谷雄高かなんかが「永久革命」とか言っていたので、革命を目指す人たちは無限にがんばろうという気があるかと思えば、一般的にそうでもない。案外諦めが早い人が多い。丸山眞男が「ファシズムの諸問題」の末尾で述べているように、ファシズムとは「反革命」という積極的な目的のない目的を持った「無限の運動」なのであって、こっちの方が息が長い。確かにそうであって、この持続力をなめていた革新勢力はすべて理念の空振りに終わる。わたくしが大学院の時に、非常に心配だと思ったのは、アメリカでは、「フェミニスト以外は立ち入り禁止」とか「文化研究者以外は立ち入り禁止」とかいう張り紙が入り口に貼ってある学会があるということを聞いたときである。本当か知らないが、「本当かもしれないなア」と思ったことは確かである。丸山的に言えば、「異端の集中」を自分から行っているようできわめて危険な態度であると思ったが、そういう気分はわたくし自身も理解はできたのだ。こんなにあからさまではないが、人にはあまり分からないように排除を研究の主目的としたような半分リベラルみたいな学者が結構沢山いる、と感じられていたからである。したがってそういう者に対して、もっと対立が必要だと思わざるを得なかったわけで、――いまみれば、わたくしが腹を立てていた鵺的な態度の方が、もしかしたら「異端の集中」を起こさないための知恵だったのかもしれないが、その当時は、社会党的というか「仲良し学問」みたいのが学会パラサイトへの道に感じられていやだったのである。こういうわたくしのような青い感情が、現在の「正義の学者」たちを生み出す土壌になっていたのかもしれない。つまりは、戦後の学生運動の同じ認識パターンを繰り返していたわけだ。

まあ、よくわからないのではあるが、結構自分のポジションを明晰に語る人が多いのでわたくしは戸惑う。そんな簡単な話だったか?

『宇治拾遺物語』にでてくる、留志長者というのは簡単に負けている。

留志長者はけちな男で、妻子や従業員にも富を分け与えない。あるとき、「おれに憑いているケチの神様を祀るからいっぱい食べ物を用意せよ」と言って、一人で山に行き、一人満腹になり、気分良いなあ帝釈天よりもすごいぞこりゃ、と独りごちていた。で、怒った帝釈天が、長者に化けて、彼の倉を開放しみんなに分け与えてしまった。帰ってきた長者はびっくりして、おれのケツにはこんなほくろもある、と自分を証明しようとしたが、帝釈天はぬけめなくほくろまで似せていたのであった。もう勘弁してくれということで、長者は回心したという話である。

ところで、この話のポイントは、ケチの神様を祀ると言った長者の言葉を

「物をしむ心うしなはんとする、よき事」

と喜んでしまった妻と、たかが、一人で満腹に酔っている長者が

「今曠野中、食飯飲酒大安楽、獨過毘沙門天、勝天帝釋天」

と口ずさんでいるのを、「何だとっ」とキレた帝釈天の存在である。

にくしとおぼしけるにや、

と話者は遠慮しているが、どうみてもキレたねやつは。しかも、この帝釈天というのは、わたくし並に引用とパロディが好きな御仁で、長者に化けたあげく、

「我、山にて、物をしむ神をまつりたるしるしにや、その神はなれて、物のをしからねば、かくするぞ」

それは、彼の妻の解釈だろがっ。まんまと長者は、この帝釈天に負けてしまう。気の利いた、このような誤解と模倣とパロディの文化は、こういう帝釈天のような権威の架空性をある意味隠蔽してしまうので、この話に喜ぶ読者は永久に貧しいままである。

資本の運動や官僚の世界が、こんなに簡単に負けてくれる世界とは思えないのであった。