「桃太郎」が侵略者じゃ日本の英雄じゃとかいう争いには、考えてみると、話の単純さからくる平凡さがある。桃太郎を英雄だと思っていた者が頓馬なのは自明だが、だからといって、ほんものの侵略者が芥川龍之介「桃太郎」のようなレベルであるとは限らない。考えてみると芥川のそれは「暗黒童話」のそれであるから桃太郎が頭が悪すぎで鬼畜過ぎ、鬼達がロマン的すぎる気がするわけである。現実の帝国主義とはこんな甘いものではなかったはずである。芥川的なこういう相対的な批評は、しもじもがやると、鬼達はより純朴に、桃太郎達にも心があった的な非常にくだらないところに落ち着くのであって、――いまの我々のような状態に至る。
これくらべると、「僧伽多羅刹国に行く事」(『宇治拾遺物語』)なんかは、安吾の小説なんかに近くて、上のような堕落は少なくとも防いでいるような気がする。
僧伽多が500人ほどの商人を連れて航海していたら、信じがたい美女ばかりの島に流れ着いてしまった。しかしその美女たちは実は鬼で人間たちを捕食していたのであった。気づいた彼らは観音に助けられて脱出するが、僧伽多の女はひとりでやってきて彼を誘惑する。拒否されたので王様に謁見した女はそのまま王様とベッドイン。女が「気はひ姿みめ有様香ばしいく懐かしき事限りなし」だったからである。王様は二日三晩寝所から出てこず政治を放棄。心配で覗いてみると、赤い頭だけが転がっている。急遽皇太子が即位して、羅刹国に攻め入る。軍の指揮を執った僧伽多が、その国の王様となった。
日本でもよくあったけど、植民地や南国の女との恋物語は、植民地主義と関係がないのか。勿論あるのである。それそのものではないが関係はある。この物語のように、なかなか批評しがたい流れが実際は「桃太郎」的なものを形作っているのではなかろうか。「桃太郎」が昔の鬼と遊郭に行くようなキャラクターに戻っても、そんな簡単には桃太郎の問題は解決しない。