昨日『安部公房伝』をめくっていて、作者の安部ねりさんはどうしているかと思って検索したら、今年の夏亡くなっていたことを知った。『安部公房伝』に書いてあったことで以前読み落としてたんだが、安部公房はリルケに夢中だった頃、東大前のレコード店でマーラーの第9のSPを買っていたということだ。
この前、ラトルとベルリンフィルのラストコンサートがテレビでやってた。マーラーの第6番である。この曲によってクラシック音楽への愛着を決定的にした人は多いはずであるが、おもちゃ箱にして純文学、みたいな非常に面白い曲である。第4楽章が特に面白い曲で、元気はつらつな発狂した葬送行進曲とも言うべき、かは分からんがそのよくわかんない感じがたまらない。有名なマーラーハンマーも出てきて、今回のラトルの映像でも、振り上げられたハンマーの後ろに座っていた客の女の子が、「さーくるぞくるぞー」と見守っているところに「ドッカン」とハンマーがうち下ろされた瞬間――に遅れて、その女の子がびくっと驚いているところが、まさにですね「マーラー最高!」という感じである。
ところで、穴が好きな安部公房とハンマーのマーラーで思い出したのだが、「保輔盗人たる事」(『宇治拾遺物語』)は、恐ろしい話である。保輔は、藤原保昌の弟である。保昌は盗賊を自宅に招いて「訪ねてきたまへ」と諭した例の男である。保輔は、商人が武器など売りに来ると、お金払ってやると奥に招いて殺害し、自宅の藏のしたにつくったでっかい穴に放り込んでいた。
堀りたる穴へ突き入れ突き入れして持て来たる物をば取りけり
というわけであるが、それにしても
この保輔に物持て入りたるものの帰りゆくなし、この事を物売り怪しう思へども埋み殺しぬればこの事を云ふ者なかりけり
という言いっぷりがすごい。全員殺しているから殺されたという者がなかったからばれなかった、――そんな訳はない。よく言われているように、読者達はどう考えてもこの「埋み殺す」というところにバックにいる道長の権力をみないわけにはいかないのであった。確かに、働く者の世界には、どうやったのかは分からんが、確実に何かの意志で物事が生起するということがある。ただ、こういうことは、権力の作用だけでなく、日常的に自分の身にも起こっていることであって、なんというか因果関係というのはそもそもよく見えないものなのである。しかし、それが恐ろしいからといって、忖度と陰口の世界に逃げ込むのは、その因果関係を勝手に確定して溜飲を下げることであるので、――まあ、中学生みたいなものだと思う。自民党の選挙をみていて、たぶん、安倍陣営も反安倍陣営もそんな中学生みたいな感じになっているんだろうなあと思わざるを得ない。せっかく政治家になっているのに、なぜ自分の主張を朗々と語らないのか理解に苦しむが、まあその程度だということであろう。わたくしも似たようなものだ。どうしたらいいのかさっぱりわからんし、だからといって何が事態を難しくしているのか全く推測がつかないわけではない。たいがいの大衆だってそういうものであろう。クラスで一致団結で平和、みたいな状態でモチベーションを保つことがデフォルトの我々は、いらぬ葛藤を怖れる。だからとりあえず安倍でも何でもとりあえず今のままで儲けよう、という人たちが6割ぐらいはいる。ある意味、これは普通の反応なのである。そりゃ、いろいろ理念的には崩壊しましたよ、いろいろともう我々は終わってますよ。しかしそんなことはここ20年ぐらいでその必然的にも見える崩壊過程を骨の髄まで多くの人たちが味わって体感的によく知っていることなのである。簡単にはマトモには戻らないことを多くの人たちが知っているわけだ。保輔を放置していた権力や世間にもそんな気持ちがあったのかもしれない。
まあ、わたくしの見たところ、最近の若者の中には、マーラーハンマーやら保輔の穴みたいな発想をする連中がいて、我々のような中年やその上の老人達の生悟り顔の眉間に一発刀を振り下ろそうとする欲望を感じることがある。坂口安吾ではないが、いま我々は「文学のふるさと」みたいな悲惨な地点を望み始めている。そういうなかでは、わたくしが常に心がけようとしている、垂範的顧慮なども、無残な感じである。