大学院の時に、「賀茂社より御幣紙、米等を給う事」(『宇治拾遺物語』)を読んだときの感想は「とりあえず働け」であった。
ある比叡山の僧は貧乏であった。彼ははじめ鞍馬寺に参った。ここは毘沙門天のとこである。まったくうんともすんとも効き目がないので百日粘ってみたら夢で「しらねーよ、清水に行ってみてよ」といわれた。清水寺に行ってみた。ここは観音様である。ここもなかなか答えがないが百日目に「知りませんわ、賀茂のとこ行ってみたら」と言われた。賀茂神社に行ってみた。ここはえーとよく分からんが例のカモ神である。でまた百日お参りしてみた。するとついに、
わ僧がかく参る、いとをしければ、御幣紙、打徹の米ほどの物、たしかにとらせん
と夢に出た。毘沙門天→観音→カモと神仏習合スパイラル的にたらいまわしにあった割には300日で何かくれるというのだからありがたいものであるが、この僧はそもそも神頼みで何とかしようという不逞の輩なので、
所所参りありきつきるに、ありありて、かく仰らるゝよ。打徹のかはり斗給はりて、なににかはせん。我山へ帰りのぼらむ、人目はづかし。賀茂川にや落ち入なまし
と、極端に走ります。300日働きもせずお参りしたの成果がないの、で、賀茂川に身投げしようとはたいした根性です。しかも「賀茂川」、カモが被っている。カモに大変に失礼である。
しかし、いざ貰ってみると、まったく例の「減らないタイプ」であった。僧は裕福に暮らしたそうだ。
わたくしは学生で、働いていないことが複雑感情を拗らせておったので、ついこの僧に対して「賀茂川に入ればよかったのに」と思ってしまいました。しかし、この話は考えてみるとなかなかよい話であった。上のカモさんの本地が何様なのかこの際どうでも良いとしても、だいたい、宗教者が自力で経済活動をやったり親の遺産で威張り腐るのがあまりよくないのは、昔からであろう。「金で買えないものはない」とか「三本の矢」とか言ってひんしゅくを買ったりするでしょう。それに同じことを300日も飽きずに続けられるところが怪しいです。「修行するぞー修行するぞー」のタイプかもしれません。それよりも、信仰からもたらされた無限の恩恵に浴し、心穏やかに暮らせるなら、いいと思います。不幸に無理矢理逆らうのはあまり良くないのであります。
もしかしたら、この話者はベーシックインカム論者か社会主義者だったのかもしれません。いや、結構主体的に賃金闘争をやっているという意味では後者でしょうか。働いていないという意味では前者です。まあ、それはともかく、『ドイツイデオロギー』の、朝から狩ではありませんが、――われわれはずっと同じ事を一日中しすぎではないでしょうか。