思想や文学を志して大学院なんかに入ったり、自宅の個室に本の砦をつくって籠もったりするのは、昔でいえばほぼ出家に近いと思うのである。それが妻子を棄てるところまで行く人もいれば、家に留まる苦行を選ぶ人もいるが、それがある種の栄光に包まれていないとなかなか耐えられないというのはあると思う。わずかな思想的な、あるいは文学的な警句を胸に、現世の目的を捨てて生きることは、なかなかできることではないのは、昔も今も同じである。いまや大学の方は、すっかり出家の行き先ではなくなっており、どちらかというと宦官になるようなイメージに近くなってしまった。若手の論文からは、だから、昔は少しあった文学志望者の絶望的な矜持の匂いがあまりしなくなっている。それとも、わたくしがそれを感じ取れなくなっているのであろうか。
「出家功徳の事」(『宇治拾遺物語』)はその意味で、出家自体に栄光を付与しようと頑張っている。ある道祖神の祠に泊まっていた僧が、明日武蔵寺で新たな仏が出現するというので、梵天、帝釈天、諸天龍神が参集するというのです知ってますか、という誰かの声と、知りませんでした必ず行きますよ、という道祖神の声を聞く。で、その僧も武蔵寺に行ってみた。来たのは、よぼよぼの小さなおじいさんであった。寺の僧が立ち会って、おじいさんは出家した。ただそれだけであった。
しかし、その出家には、おそらく見えないけれども、梵天、帝釈天、諸天龍神が見守っていた。これが出家功徳の事なのであり、だから
若く盛りならん人のよく道心おこして随分にせん者の功徳これにていよいよ推し量られたり
とか、話者が最後に言えてしまうのであった。参集するのが、もっとえらい仏の祝福ではなく、梵天、帝釈天とか竜神というのがよい。いまだって、ちょっとえらい先輩の祝福とかがうれしいものである。