花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に
出家は多くの雑音入りの録音から、ある音域だけを切り取ってみつめる作業のような気がする。そうすると、花に染まっている帯域が意識の中に顕れるのだ。出家をしないと我々はあまりにも多くの作用の中に自らを浸している。煩悩というのは、その多さに対する煩わしさでもあって、それを追い払うために大きな欲望みたいなものが近づいて来てしまうのである。
もっとも、心をある帯域の組み合わせのような範疇としてみた場合にはそういえるのだが、出家には、おそらく、無秩序さの自由さを取り戻す意味もあって、より煩わしさの感じないレベルの自由に身を浸す意味があった。西行にしても、方丈記の人にしても、河の流れや花の姿がめにちらつくほど、その周囲の状況は無のように見えて、雑多な無秩序が展開する自然が広がっている。精神は、フラットネスを厭う。我々のなかに、そういうテクストしか求めない欲望もあるし、山の世界がそうである。たぶん柳田國男が山人やらを想定してみたくなるのもそのせいではなかろうか。
わたくしなんか、山の世界を近代的に閉鎖(真空)空間と捉えていたので、平野にでてきてしまったが、妹たちはめざとく、一度平野に行ったけど飽きたのか、山の方に家を建てておる。
今日のアメリカの男女同権をそのままの形で日本へ輸入しようとするならば、私はまずダムの建設を提唱する。まずダムを作って、電力を無制限に、ほとんど無料のような料金で供給する。一方工業を興して電気冷蔵庫をたくさん作り、冷凍食品で生活出来るように、食生活を改善する。また真空掃除器も、ふんだんに作って、安く売り出す。そうして主婦は、家庭で無駄に消費される労力を省いて、外へ出て働き、経済的独立を確保する。そうすれば男女同権は、自然と生まれてくる。
この議論は、もちろん極端な話であって、精神的の方面を全く無視した暴論である。しかし物質的方面を忘れた議論は、全くの空論であることを強調するためには、こういう議論もたまには必要であろう。男女同権はもちろん人道上の原則であり、当然そうなくてはならないことであるが、そのことと、それが一枚の法令さえあれば可能であるということとは、また別問題である。
男女同権のような、いわば精神的の問題でも、やはり物質の制約を受けている。いわんやその他の問題では、推して知るべきである。
アメリカの今日の繁栄は、別の見方をすれば、それは捨てる文化である。そして捨てる文化は、働く文化である。ただこの場合注意すべきことは、働くという言葉の内容が、日本の場合とは著しくちがうことである。
――中谷宇吉郎「捨てる文化」
なるほど、こんまりさんの断捨離論はアメリカだから受けたのか。そして働く文化がその合理化のみなもとか。中谷は働く意味が日本では違っていると言うが、――確かに、滅私奉公的空転のことを言っているのだろうが、もともと、世を捨てることと、逆に捨てない精神状態になることが重なっている我々の文化では、なかなかモノを捨てられない、ひいては制度も捨てられない癖がついてしまっているのかもしれない。