★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

源氏物語 対 千切木

2021-10-01 23:56:39 | 文学


シテ やい、汝は女じゃによって何も知らぬ 果たすと言へば事によると身共が命がないぞよ
女  己はまだ生きていようと思ふか
シテ すれば身共は死んでも大事ないか
女  オオ死んでも大事ない
シテ わわしい女は夫を食ふと言ふが、おぬしのことぢや


連歌の仲間外れにあった太郎は、連歌連中に踏まれてしまう。ここに駆けつけた女房が「男なら死んでこい」とたきつける場面である。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより 下臈の更衣たちは、ましてやすからず。


例の海の王子殿がどういう人かはしれないが、男女をひっくり返したら構図は同じで、 下臈の更衣たちが世論になっただけだ。これを源氏的ロマンスととらえ、ぴかっと光る子どもを期待する人も居るだろうが、――問題は、結局男女がひっくり返っていても病むのが女の方というのが悲惨というべし。源氏物語は、いじめを行ったクズに鉄槌を下さずに、息子が隠微な形で回りくどい復讐をしているうちに自分も過ちをおかして行く。まさにわが国(「いわゆる源氏物語=天皇制」だね)というかんじである。むかしから、てめらが苛めてるくせに、苛められれた人間が引きこもって病気だとわかると突然ケアモードになって(源氏物語の語り手に同調して行く読者もその傾きがある)のは我々のただの伝統である。ケアの論理は最近の現象ではない。

が、夫婦というものは上の狂言「千切木」みたいなものもあるんでね。

ファムファタールなんかを知るだけでも文学に触れる意味はあるというべし。惚れた腫れたは心理の問題じゃないんだ。人生の問題ですらない。分からない問題なんだ。こんなことすら忘れているから、「いわゆる源氏物語=天皇制」が回帰してしまうのである。