★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天下りと還相

2021-10-17 23:47:26 | 文学


おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲


こんな夢をみた。東京から徒歩で帰ろうと思って小雨の丘を登った。霧で上方が見えないが富士山だろう。怖いので引き返した。私は一生小雨の東京駅だろう。

山の端と簡単に言ってくれるが、山の端は美的対象とは限らない。無限としての虚無の入り口のような気さえする。

奧へ奧へ行こうとする我々の本性がある一方で、屡々、山の向こう側からくるのは怖ろしいものであった。実際、天下りの語源となった天孫降臨というのは、ほんとにただの官僚の天下りであった可能性があると思うが、いっそ下るなら**の国まで下って欲しいものだ。その意味では還相する人は一度死んでいるから心がけがいいと思う。それを人間ができるものとも思えないが、――少なくとも、西行だって、出家するときに、自分が生きているのか死んでいるのか分からない境地を潜っているはずであるから、もう一回俗に降りてきても許せるというものだ。

我々には、逝って帰ってくるものに対するゆるい感性がある。それは半径2,30メートルぐらいの範囲に起こる身近で世界を巻き込んだ循環であって我々が眺めながらそこにいる。

乃ち此信仰(先祖)は人の生涯を通じて、家の中に於て養はれて来たのである。證拠が無いといふやうなことを、考へて見る折はちつとも無かつたといふ以上に、寧ろ其信仰に基いて、新たに数々の證拠を見たのである。

――柳田國男「先祖の話」


「部屋とYシャツと私」という曲があったが、あらためて聴いてみたら三拍子であることを発見した。三拍子は、循環するリズムである。拍子が「部屋とYシャツと私」という3つを循環する。この歌は人の一生を歌っていて、たしかPVでも、子どもが生まれて結婚するまでを同じ部屋で経験する風景が描かれ、本当は誰かが死ぬと本当に循環が完成するのだが、代わりに猫が死んでいた。部屋の中を人の人生が循環する。人が死なないのは、ついに『家』の崩壊を示していると言ってよい。

子どもの頃、墓の位置が近いのに自力でお盆の時に帰ってこれない先祖はおかしいなと思っていたが、我ながらいいとこついていたのではなかろうか。家と墓の関係は能の舞台のようなものなのである。わたしの家は、祖父と祖母の住まいを渡り廊下みたいなもので結んでいたが、わたしが食事になると屡々呼びに行く。お盆というのもそういうところがあるのである。生きていることと死んでいることはそこでは相対的であり、呼びに行くことが「家」である。それを我々は能の舞台のように死と生を眺めていた。