★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

花と自己

2021-10-12 23:09:45 | 文学


あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき

あくがるる心が身に帰るはずはない。もともと心は身にないからである。

しかし、これが花に対する恍惚的な浮遊感だったから、身に帰らんとしても、ぼーっとしてればいずれはおさまるものであるが、これがなにか制度的に固定されたりすると、近代の愚かな愛国心みたいなものに転落する。われわれはもののあはれを持ちながら、それを常にモノへの執着として錯視しつつけている。心を失っても花が残ればいいのか。そんなことはない。

デジタルトラんなんとかの説明をいくつかみたが、SFにでてくる出来の悪いAIの書いたような文章が多く、酒飲んでだらけているアナログの主人公に「うるせえ死ね」と言われて破壊されるような雰囲気が漂っている。つまり、なんも思いついてねえくせに文章を書ける馬鹿=AIなのである。しかし、このAIというのも、一種の「遊離魂感覚」と関係があると思う。「あくがるる心」がAIの明晰さに置き換わっているだけで、だから、これほどまでに遊離感だけの文章が書けるのだ。しかも、そのD★とは、道具としてAIを使うんじゃなくて、我々の影響主体(笑)そのものに浸潤しなければならないものなのだそうだ。まさに、本気に花を感じろと命じているに等しく、――端的に頭が悪いといってよい、とはすまされない。「身に帰るべき」という不安が根底にあるのである。

自己肯定感の逆は自己否定感だと思うが、どっちも「感」であって、こういう判断ではない気分みたないなものをまずはやめてしまえば、自己否定か自己肯定かという勇気の表現となる。「感」は、やたら「と考える」とか「感じる」とか言っている文章と同じで精神がふにゃらけているのである。この「自己」は勿論、与件に過ぎない。認識出来ないがそれでよい。しかし、それを花で埋める必要があるのか。それもない。

自己とは「ドラゴンズ優勝」みたいな与件であるに違いない。不確かで、しかし、昔はあったかも知れない過去である。それ以上追究して、黄金時代を現在に将来させてはならない。そうすると、巨人のように金を使うことになり、過去の栄光まで失う。