★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天の下をばてらすなりけり

2021-10-31 23:19:43 | 文学


神路山月さやかなるちかひありて 天の下をばてらすなりけり


日本の人文系の学問でつねに問題になってきたものに、日本に形而上的なものがありうるのか、あったのかという様なものがある。私はあったような気がしているのだが、西洋哲学だって、そのつど、イデアの細胞を地上に降ろす努力によってそのつど存在させたにすぎず、我々の文化でもそうだったのではないかと思う。――もしかしたら、つねに降ろしすぎているのではないかとも思うのである。それが上の例である。すると、常に何かが上にあるような気がしてもう少し具体的な細胞に無頓着になる。

「ガリヴァー旅行記」みたいな細胞もそうだ。小川淳也の映画は、むかしの「小説吉田学校」とかの意味をちょっぴり復活させるもので、我々の政治意識が薄っぺらいものになっているのは、ポリティカルフィクションの質の問題もある訳だ。これからは案外、明治初期じゃないが政治小説の時代かもしれない。そのつど国会開設をめざす魂が失われるといまのようになる。リベラル勢力がうしなったものがそれで、まだ百田氏みたいなものにそれがあった。マルクスだけじゃだめで、トマス・モアやヴォルテールがいるのだ。差別批判もそうで、原則は常に新しく、また原則に過ぎないのである。

私は、「1984」や「動物農場」のようなフィクションに限界を感じる。リベラル?にありがちじゃないだろうか、この限界性。わたしはバトラーやハクスリーの方がいいように思う。

あとは、個を超えた血(知)のつながりは大きい。現在の大学人のけっこうな割合がそうであるように、親や爺さん婆さんの行為を反復している。わたしなんかも先祖の恨みを晴らすだけでなく、地元の童話作家や藤村の恨みを晴らすみたいな意識があるからな。政治意識もそうで、こういう長い時間で考えるべきなのである。文学をやってるひとなんか、ほとんど小林多喜二と三島由紀夫のうらみはらさでおくべきや、みたいな意識でしょうが。

学校が追いつめられているのは、お勉強が出来ることが将来どのようなことをもたらすかもたらさないかについて、十分説明できないというところに顕れている。で、困ったあげく、政治的な事象をを含めた生き方の問題じゃなくて、人間性みたいなことを示すしかなくなっている。「イイヒト」問題である。無論原因は教師も二世が多いということだけではない。具体的な政策によって遂行されたのである。――かようにして、メディアのネガティブキャンペーンのはりかたも、政治家たちなどの生き方の問題よりも、モラルや態度や人間性への攻撃になりがちだ。うちの選挙区で落選した自民党員なんか、政策というより人間性が遂に疑われたから落選したに過ぎず、生き方すら問題になっていない。というわけで、生き方そのものを少し問題にし始めた小川氏の方に天が味方した。

いまはとにかく転向の時代である。いろいろ理由はあろうが、転向するやつは信用できないということは思い出して貰ってよろしいのではないかとおもう。ネトウヨからの、サヨクからの、小沢主義者からの、いろいろなところからの転向があるわけだが、ボスが腐っても一緒に心中するほうがわたしは好きだ。自民も立憲も大学人も企業人も根本的に修正主義者、つまり合理的な修正を加えればよいと思いがちだ。しかし、その修正は最終的には自己利益に従って成されるから根本的な変更に至らないし人の心を打つこともありえないのである。こういうのに絶望して真摯なひとたちは転向してしまうわけだが、我慢のしどころというか根性が必要なところじゃないか。

幼稚なものはともかく、冷笑主義を自覚しない大の大人の冷笑主義はこういう経緯をもって誕生するのでやっかいである。歳とってからの転向なので人生の帰趨という感じもして改心できない。吉本隆明もどきの大衆主義?とかが、むかしの転向者の帰農みたいな羞恥心をもたせずに転向を合理化してるところもある。ただ、こういう人間はまだましである。吉本なんかが問題にしてたのが、自立そのものでなくて生き方の問題だったことにいずれ気がつくであろうから。