
瀧落つる吉野の奥の宮川の 昔を見けん跡慕はばや
この歳になって、やっと柿本人麻呂の吉野讃歌が楽しそうな散文のように聞こえてくるようになったが、それに比べると、ただのミッションの表明ではないかっ、と思わざるを得ない。
天武持統の時代に、離宮であったのかもしれないそこは、確かにその時代は楽しそうな場所であったのかもしれない。奧に奧にいった先に何かがある感じは我々の文化的本能みたいなもので、学者なんぞやってるひとはだいたいこういうものに突き動かされている。先にはたいてい何も無いのだが、実際の山には確かにあったりするのだ。
だいたい吉野宮滝はまだ行ってないが、――写真をみるに、ほぼ寝覚ノ床にみえるではないか。こんなとこは木曽にもあるぜ。
木曽もちょっと木曽川からそれて御嶽の方に彷徨うと、開田高原なんか、神仙境にみえなくもなく、――まだいったことないが、小木曽なんかもきれいなところだ。銀座が日本各地にあるように、吉野宮滝みたいなものは日本中にあるのだといってよいんじゃないか。この類似性の拡散が、我々の何者かを形作っている。
そういえば、矢代梓氏って笠井潔の兄貴だったのか。今更知ったわ。ネットじゃなくても調べればわかったことだけど、こういうことが分かることがネット時代では多く、誰と誰が兄弟で親子で親戚でみたいなことが判明して世界が狭くなった。柳田國男の「先祖の話」を今日も少し読んだが、日本の分家制度のありかたは、上の吉野宮滝のありかたに似ている。家督を継ぐ当事者にとっては、祖先のたての繋がりは世界の広がりでもあり自由でもあったが、分家同士の分断でもある。ネット上のそれはしかし単に系図を眺めている状態にちかいのだ。
自分の家の系図を眺めることは世界をある意味広げた感じを体験することだが、人様の系図をみるのはそえとはちがい、狭まった感じがする。この経験は、ある種、戦国時代みたいな家同士の関係意識に近いのかも知れない。そういう対他意識的な危機意識とは別に、柳田が言うように、そもそも家督とはそれが一部でしかないような、習慣であり口伝でしか伝わらないものの集積である。柳田は秘伝・口伝という伝承方法を家督と結びつけるが、確かに、仲わるい親戚同士がばあちゃん秘伝の漬け物で一瞬仲良くなったりするわけである。あとカルピスの秘伝、あれはもう公開されたか。。。
戦時中「先祖の話」を書いた柳田はもう日本の家制度がぼろぼろであることを知っていただろう。
もっとも、秘伝と言っては少しちがうが、我々の祖父祖母の世代の戦争への処し方が案外、我々の世代ぐらいまでは秘伝みたいに伝わっていて、それがある種の家督意識を生じさせているのはあるかもしれない。偶然にも、我々はお盆を終戦記念日と同時に体験し続けることで、戦争当時の罪も責任も秘伝として受け取っているかもしれないのである。それは表にはでてこないが、秘めたる家の意識としてぎりぎり我々の世代までは伝わっている気がする。
吉野讃歌みたいなものも語り続けられるが、それは膨大な吉野に対する表明によってなされた。しかし、表明されないものの伝承も当然あるのである。今も難しくなったには違いないが、ある。