
尸骸爛草中。以無全。神識煎沸釜。而無専。或投嶃巌之刀嶽。流血潺湲。或穿山集嶫之鋒山。貫胸愁焉。或轢万石之熱輸。乍没千仭之寒川。有鑊湯入腹。常事炮煎。有鐵火流喉。無暫脱縁。水漿之食。億劫何聞称。咳唾之飡。万歳不得擅。師子虎狼。颬颬歓跳。馬頭羅刹。盱々相要。号叫之響。朝々愬霄。赦寛之意。暮々已消。嘱託閻王。愍意咸銷。招呼妻子。既亦無繇。
空海も一回ダンテのように地獄巡りでもしてきたにちがいない。もっとも、ダンテはもっと意地が悪く、地獄に行くと自分の恨みが投影された風景が広がっていた。で、つい彼らがどんなに罪深いのか逐一書き記し、階級的地獄をつくりあげた。これにくらべると、この地獄はまるで万人に対して待っているかのようだ。空海は、恨みがないのか、恨みが深すぎるのか。
いまの大河ドラマでは、義に厚い義仲像が打ち出され、反対に鎌倉の連中は粛清の嵐を起こしてしまう。嗚呼、政治はかくもきたないと視聴者たちは思うかもしれないが、これはPDCAサイクルとかいうて、欠点や問題点を「消去(粛清)」するのに一生懸命な吾々の社会そのものなのである。義仲殿の評判が好転したことをいいことに、我が田舎こそが義仲に由縁ありと名乗り出てくる其処此処のあれがあれであるが、吾々の先祖のだいたいは、幼い義仲の居所を密告したり、義仲軍の落ち武者や平家の落ち武者を集団で殺して褒美を貰ったりした輩である可能性が高いのではなかろうか。どういうことであろうか。
吾々の行き方は、たいがい「下手な鉄砲も数撃てば当たる」的であり、それはいつも生き残りをかけて行動しているだけだからで、――確かにどこかに弾はあたってるのである。そこに源氏がいたか平家がいたか、組織の不良分子がいたかの違いにすぎない。数撃てば当たる、というのはPDCAサイクル的に計画的なのだ。そのサイクルの最悪のサンプルが連合赤軍事件だ。この場合少数だから悲惨な結末がすぐきたが、普通はここまで糞真面目でないリンチが国中で延々続く。数打ちゃあたると思って続くリンチである。
労働を管理しようとして労働者がますます受け身になり、つまり労働者は能力を失い、もうすでに能力の問題を指摘することさえ怖くて出来なくなっている。そして疲弊の余り、労働時間を減らすことだけを考えるようになる。労働時間を減らしてもやらなければならないことは減らないし、むろん労働のための自らの体力は落ちてしまう。労働だって、ピアノや野球と同じく練習による観念的=体力がつかなければこなすことは無理なのである。
こんな悪循環は、吾々の社会では繰り返して起きていると見做すべきである。で、あとはプライドをどう保つかみたいな話になる。そんな人間の心ではどういうことも起こるので、瀕死の平家の落ち武者を叩き殺してしまった農民が自分を平家の落ち武者として子孫に伝えて行くなんてことは容易に起こりうる。そして良心欺瞞か傍観か、――何かはかわらんが、判官贔屓などというものも発生させることもあるだろう。