
其鱗類。則有慳貪嗔恚極癡大欲。長頭無端。遠尾莫極。挙鰭。撃尾。張口。求食。吸波。則離欲之船。橦摧。帆匿。吐霧。則慈悲之船。擑折人殛。且泳。且涵。志意不式。或饕。或餮。心性非直。如壑。如渓。後害不測。若鼠。若蚕。匪惻。共忘千劫之蹉跎。並望一涯之貴福。
確かに、私も魚にあまり好意をもっていないような気がする。子どもの頃、金魚が家で飼われていたが、彼らに感情が入り込むことはなかった気がする。これに比べると、――冬に孵ってしまったカマキリとか、増えに増えてしまったモルモットたちでさえ、気持ちが分かる気がしたものだ。高校のときのインコなんかどうみても学校の仲間たちより私の気持ちを分かっていた。
魚たちのせわしない感じをみていると、吾々の先祖は陸に上がって、静止の世界を獲得した様に思われるのだ。吾々は考えながら動くことも出来るが、止まって考える場合によく考えることは確かである。魚は水と一体化している、つまり世界の外部がない。我々は水を捨てた代わりに、空気(無)を介して外部を持ったのであろう。対象を自分と切り離して勝手に対象に入り込む様な魂を手に入れた。「夢応の鯉魚」は、たまたま魚に入り込んでしまった皮肉な話である。――それはともかく、我々は対象にのめり込むことを快とかんじながら、本来の姿はそうではない。
菅田将暉氏が、俳優は他人のことばっかり考え続けているのでそのままだと壊れてしまうみたいなこと言っていた。これは、対象のことばかり考えている学者にもいえるんじゃないだろうか。理性でなんとかしていると思っているからかえってやっかいで、壊れていることに気付かない人もいるのかもしれない。
かように我々はやっかいな存在になってしまったが、その調整作用として、我々は自分にすら自分で入り込む。しかし入り込むことを対象に対する価値評価と解して頑張ってしまう場合もあり、今はやりの「自己肯定感」とかいうのがそれであろう。そもそも「肯定」というのが思い上がっているのだ。実際は、安心感みたいなものである。そんな判断を行うのは暴力である。すなわち、自己肯定感とやらがある人って、逆に自己を否定することもあるし他人を否定することもあるということであろう。肯定とか否定とか、そういうもんは閻魔様に任せりゃいいのだ。まだ太宰治の方がしゃれてるよ、人間合格感とか人間失格感とか、言っているわけで。
今日は、信濃毎日新聞社編の『信州の百年』(昭四十三年)を読みふけってしまったが、ありふれた意見だけど、日本の歴史みたいなものをやったあとで、こういう県とか郡とかの歴史を勉強すべきなんだと思うのである。そうすると、ドイツの片田舎の娘が自分の親や祖父祖母たちがいかにナチスに迎合していたかを暴いた、映画「The Nasty Girl」 じゃないが、自分達のまわりがどういう風に処したかおぼろげながら分かって、政治的なふるまいの必要性もはっきりすると思う。いまみたく、小学校低学年で郷土の歴史をものすごく単純におそわっただけで、あとは世界とか日本の広さに飛んでしまい、しかも近代史までたどりつかないとなると、ほんと、世界観が「自分と世界」みたいな「セカイ系」みたいになってしまうにちがいない。
日本でも事情は同じである。外国での戦争犯罪の議論も大事だけど、もっと伏せておきたかったのは狭い共同体における戦争協力・扇動の実態である。戦争に限らない。たとえば私は神坂村の合併問題の時に、児童の登校拒否や長野県警の300人弱の出動などがあったことを知らなかった。地元の人はトラウマだろうが、こういうことはいつも蒸し返してもよい問題である。こういうことを蒸し返し続ければ、問題解決能力とか合意形成能力とかいうファシスト紛いの言葉を振り回さなくてもよくなり、政治問題はテレビの向こうではなく、親子関係や師弟関係にこそあることが明らかであるはずである。
『信州の百年』の解釈?だと、「長野県教員赤化事件」に関して、不況で東京外大や京都大の卒業生が、実業補習学校の教員として赴任し、三木清の購読会などをやりはじめたのを重視している。西田派にあきたらない青年教員たちが三木に走ったというのとはちょっと違った側面があったということになるだろう。インテリ帝大生による「赤化」を恐れた官憲が動いた側面は確かにあるのかもしれない。大正期以降の自由主義教育のせいなのか、西田哲学を勉強するようなきまじめな風土のせいなのか、いずれも少しはあたっているのかもしれない。
私なんかは、我々が魚やモルモットやインコの真似を少しはしているように、「信濃の国」にでてくる人物たちの真似をしている気がしている。義仲、仁科五郎、太宰春台、佐久間象山、――みんな日本国にたいして一言多い連中である。