![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/5d/81c2c6a022d5b96107dc9c7fe1b5a303.jpg)
客聊和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。然るに未だ勘状を進らず、上奏に及ばず。汝賎しき身を以て、輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。
主人の曰く、予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧羅松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。
客はつい、エライ人はいまだ政府にたてついたこともないぞ、お前は身が卑しいくせに、と言ってはいけないことを言ってしまっているのだが、これはこのテクストの語り手が言ったことである。確かに、追いつめられるとこういう身分やら何やらを持ち出すバカは世の中に沢山おり、何をするのか分からない輩である。日蓮は、こういう輩に対しては悟る必要なんかないんだということを、テキストの上で上演した。これはのちのプロレタリア文学の手法である。客は主人のことばを「莠言」として、善意は表面だけの裏の悪意を読む。そして、こういう悪口は、すぐお前こそそれを使っているじゃないかと反転出来るからである。
「太田南畝っていったい何だい」
「蜀山人の事さ。有名な蜀山人さ」
無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と訊いて見た。
「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」
私は考えた。そうして何しろ価切って見るのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買っても好い」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほど嬉しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜南畝莠言――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。
――漱石「硝子戸の中」
確かに、そんな題名の本は机において寝るのがいいのかもしれなかった。