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於是。亀毛等。百斛酢梅。入鼻為酸。数斗荼蓼。入喉爛肝。不仮呑火。腹已如焼。不待刀穿。胸亦似割。哽咽悽愴。涕泣漣々。擗踴倒地。屠裂愬天。如喪慈親。似失愛偶。一則懐懼失度。一則含哀悶絶。仮名。則採瓶呪水。普灑面上。食頃。蘇息不言。如劉石之出塚。似高宗之遭喪。
儒教先生や道教先生に勝つために、仮名乞児は理屈ではなく「それじゃ地獄に墜ちるぞ」「地獄というのはこういうもので……」と長々と歌った。吾々にとっての世界は理屈というより、空が青いとか美しい人が居るとか虫がいるとか地獄があるとか、――そういう具体的な映像そのものによって吾々の頭脳に跳ね返ってみえるものであって、本当は、儒教先生も道教先生も自らの説教でそれを自覚しているはずであったが、それはまだ説教の手段に寄っていた。これに比べると仮名乞児のそれは、まるで歌う総天然色映画であった。
現代においては、怪獣映画やゾンビ映画が地獄を歌っているが、それをフィクションだかメタファーだかの概念が妨害している。
最近、高峰秀子さま主演の「女性操縦法」を観た。太宰の原作は「グッド・バイ」だが、それとはだいぶ違う物語であった。わたくしはフェミニストというよりファンとして、原作のクライマックスを活かし、秀子様が森雅之を蹴り飛ばす場面が見たかったのであるが、なんだか男の横暴を緩やかに許すラブストーリーになっていた。京マチ子と宇野重吉の「痴人の愛」も結末がひっくり返っててびっくりしたのだが、――そういえば、「青い山脈」もあわせてみんな一九四九年の映画なのである。
この三つの映画の争いは、結局石坂洋次郎のものが大勝利だった。「古い衣装よさようなら」で水着を押し出して、自転車に乗って歌を歌わせたら大ヒットしてしまったのだ。結局、戦争そのもの、戦前そのものを蹴っ飛ばすような乱暴なところが勝利した気がする。戦後、吾々がいま想像するより、戦争映画は多い。それは反動的でもあったであろうが、結局は吾々はどういう理屈がついていようとも、戦争という体験を「映像」に置き直して昇華する段階を必要としたのである。まだ必要としているようなので、ちょっとおかしいのであるが。。。