★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

動かない無常観

2022-05-15 23:54:03 | 思想


則許頂珠。以封壃。同彼鶖子授記之春。奉頸瓔。以尽境。比此龍女得果之秋。十地長路。須臾経殫。三祇遥劫。究円非難。然後。捨十重荷。証尊位於真如。登二転台。称帝号於常居。一如合理。心莫親疎。四鏡含智。遥離毀誉。起生滅而不改。越増減而不襄。踰万劫兮円寂。亘三際兮無為。豈不皇矣。不亦唐矣哉。軒帝堯羲。不足採履。輪王釈梵。不堪扶騎。天魔外道。馳百非而非所毀。声聞僻支。飛万是而非所是。


「起生滅而不改。越増減而不襄。踰万劫兮円寂。」(生滅増減を越えて、改まったり減ったりもしない、長い時間をこえて涅槃にいたるのだ)というが、我々にはなにか、この越えてゆく涅槃以前に、時間を長引かせる癖がある気がする。

いろいろな土地に移住してきた経験からいうと、日本というのは山と海に行く手を阻まれた基本的にとても移動が難しい国だと思う。ヤマトタケルから義仲や義経の伝説には、余り長い距離を短期間で行こうとすると疲れて死ぬという実感が込められている気がする。日本はその意味で広くて果てしない空間があり、それが長い時間を維持しようとする感覚にも繋がっていると思う。無常観が必ずしも絶望じゃないのもそういうのと通じてる気がする。それは動かない無常観で有り涅槃とも言うべき感覚である。

賴朝や家康があまり移動しなかったことによって長い時間を獲得したのが、我々を縛っている。そもそも、天皇自体があまり動かない存在である。動いたら、わが崇徳院の様になってしまう。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢わむとそおもふ

これと、方丈記の冒頭や美空ひばりの歌は同一物を歌っている。それは流れてしまうこと、短時間で終わることへの恐怖ではなかろうか。