
如是衆類。上絡有頂天。下籠無間獄。触処櫛比。毎浦連屋。玄虚之神筆。千聚難陳。郭象之霊翰。万集何論。因茲。五戒之小舟。漂猛浪。以曳々掣々於羅刹津。十善之椎輪。引強邪。而隠々軫々於魔鬼隣。
先に、空海はダンテに比べて意地が悪くないみたいなことを言ってしまったが、ここをよむとそんなことはなさそうだ。「上絡有頂天。下籠無間獄。触処櫛比。毎浦連屋。」(天のてっぺんから地獄の底までいたるところに櫛のように密集し浦々に家が集まるように並んでいる)。これは、生死の海に折り重なっている魚鳥獣の輩、我々のことである。空海は海の民である。海辺の家々と礒の不気味な生態を思い浮かべているのであろうか。ここにあるのは、我々自身に対する生理的な嫌悪感みたいなものであり、それは、海辺の風景を細密描写的に眺めているうちにその風景が心に貼り付いて行くような不気味さなのである。さとりへの道は、さしあたり、このような世界を自らの感覚のなかに引き込んでおかしくなることが重要なのである。誰もが知っているように、いっこうに成長しない人間というのは、自分を世界と別のものとみているからである。そもそも思い上がりも謙譲も心理的な影であるにすぎず、自分であり世界でもあるところの「情景」を浴びることが重要なのである。
何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
――「檸檬」
梶井基次郎は、移動の作家で、自分の心を押さえつけている風景を「錯覚」とみながら自らを想像的に揺籃させている。そのゆりかごからでてくるのは卵であり、檸檬という爆弾である。しかし――思うに、こういうことができるのは、梶井があまり人を救おうとしていないということではなかったか。