★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

舜發於畎畒之中

2023-06-13 23:25:12 | 思想


孟子曰、舜發於畎畒之中、傳説擧於版築之閒、膠鬲擧於魚鹽之中、管夷吾擧於士、孫叔敖擧於海、百里奚擧於市、故天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身行、拂亂其所爲、所以動心忍性、曾増其所不能、人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徴於色、發於聲、而後喩、入則無法家拂士、出則無敵國外患者、國恒亡、然後知生於憂患而死於安樂也。

天は試練を与える。舜も傳説も田んぼを耕したり土木工事をしていたときに見出された。むしろ重大な仕事をすべきひとは試練を多く与えられ、まともな国家もいろんな問題に悩まされるからこそ滅びないんだと孟子は言う。

まるで、勉強をさせようとガンバル教師や親みたいな意見である。これがうまくいかないと、実はその苦労は将来の役に立つ、みたいな子どもでも嘘と分かる理屈を持ち出す。なにか将来が朦朧として現在の行為すらも朦朧に見えてきたイメージ豊かないい子ちゃんだけがこれに欺される。

だいたい仕事がうまくいかなかったり苦しんだりするのは学校でその準備をしなかったからではない。世の中根本的に悲惨で、そんなに甘くないだけなのだ。学校ごときで何をやってもだいたいうまくはいかないのである。

なにか日本の風物詩になってきたが、――あの教科はいらんとかあれはいらんみたいな議論である。先日も、どっかの議員が古文漢文やめて金融だかなんだかとか言ってたし、平凡社百科事典は時代遅れみたいな発言が炎上していた。世の中うまくいかないのはわかるが、それがなんで古文漢文をやっていることに求められるのだ。おまえさんがた大して古文漢文そもそもやってなかっただろが。国語は勉強しなくてもだいたいできたから?とかいうて、ほんとはなんか意味が分からなくなって退屈とか言ってただけじゃねえか。そんな頭脳じゃどうせ他の教科も大したことないだろう。わたくしは彼らの不真面目さを馬鹿にしているのではないのだ。だいたい、学校現場をのぞけば、古文漢文どころか勉強のほとんどが身につかない人間で溢れかえっており、別にそれでも世の中なんとか動いているのが不思議なくらいなのだ。

現実は、そんなものなのであるが、――実際、教科を世の中の多様性に見立てるみたいなことをしたいならば、それでもいい。わたくしは人文系にありがちなそいういう議論も結局あまり意味はないような気がする。勉強で、そのような多様性みたいなところにたどり着くのは、中途半端な優等生に期待するしかない。自分が出来ない経験をして、教科に対する他者性を経験するからだ。しかし、かれらは大概、出来なかった教科を強制された恨みを抱くに過ぎない。一方で、ときどき大学入試まで受験に必要な教科すべてが得意でしたみたいな人が、あの教科はいらんかったな、みたいな主張を始めるのは興味深い。苦手なものを強制された恨みだけでは生起する不要論を説明できないのだ。考えてみると、全部できましたみたいな人は、教科と自分の関係に悩んだことがあまりないのかもしれない。つまり、どうしようもなく勉強そのものが苦手だった人に近いのであろう。

やはり、多様性ではなく、その分野に宿る魂と輝きそのものだけが根拠になりうるのである。だいたい、いま古い家に転がっている、平凡社の百科事典とか、円本の文学全集でもいいし、原敬日記全巻でもなんでもいいんだが、戦争や一家離散で苦労したプロレタリアートの爺さん婆さんが必死こいて買ったものだ。けなすことは断じてゆるされぬ。役に立ってなくてもそこには歴史という魂が宿っているのである。

だいたい、古文漢文が役に立たないのは単なるデマなのである。明治時代、孟子は駄目国体に合わぬ紫式部はまだまだ地獄から出てこられぬみたいなことを言ってたひとはいたわけであって、古文漢文を嫌う人の中には、こういう輩が混じっていると考えた方がよいと思う。単に役に立たぬ教養は要らぬと言っているわけではないのだ。四書五経なんて役に立たないどころか、異常なほど馬鹿みたいに政治的・実践的であって、古文なんかアニメのネタの宝庫であまりに役に立ちすぎている。面白すぎて劇薬なので、つねに近代の学校ではイケナイもの扱いになっていたに過ぎぬ。人間があまりに進歩がない変態であることがバレるのがこわいというのもあるかもしれない。要するに、総じて、進歩を神とする文明開化のモードからいつまでたっても抜けられない社会と学校の安寧秩序の問題に過ぎない。

わたくしは、道徳教育で普通に「三教指帰」を使うべきだとおもってるが、心配なのは空海の表現は普通に知的ななまめかさや快感に誘うところがあるので、授業中に法悦状態になるやつがいるかもしれないということである。真の知というのは恐ろしいもので、まあ昔、柄谷行人の「隠喩としての建築」で昇天したという知り合いがいたが、昇天じたいはどうでもいい。どうみても、たいがいの教師を凌駕する優等生に決まっている。天下国家のために必要な人材であろう。なにしろ天に昇る気があるほどやる気があるのである。

国語から、毒気を抜いてしまうのは題材の面でもそうなのであるが、方法論においても毒気を抜こうとしている。例えば、国語でむかしよくやってた「要約」というのは、たんに短くまとめることじゃなくて、大学入試で「どういうことか」と聞いてくるものに近い。しかしこれを「メタ認知」とかかっこつけてるうちは出来るようにはならないんじゃねえかな。「メタ」といいつつ別の認識(知識)に置き換わっちゃうだけで。確かに、昔からこういうことが苦手な傾向は文化的にもあって、訓詁注釈は「どういうことか」の前段階を厳密に踏み続けてしまう事態でもあるかもしれない。そして、それがあまりにも停滞的でめんどうなに感じられるので、いきなり文章の外部の「文脈」の把握(メタ認知。。)とやらに跳んでしまう。ジェンダーや下部構造みたいな概念がそれにあたることがあるのは言うまでもなし。こういうえせメタ認知の横溢によって、われわれは文章や現実が、結局「どういうこと」かを観察して表現する力がどんどんなくなってしまうのである。

かように、あまりにも我々が奴隷化しているので、むろんみんなやる気がない。子どもたちもやる気がない。やる気がないというのは、物事や人から遠ざかると言うことである。だから、それを人間関係や協同性と捉えてなんとかしたい人たちがあらわれ、学校なんかにはたくさんいるわけである。その動きと歩調をあわせて、「ケア」的な倫理が社会からも要請されてきている。よって、学校現場で、配慮しなきゃいけない事柄は増える一方のように思われるわけだ。昔にくらべて本当にそうなっているのかは研究したことがないから分からないが――はっきりしているのは、むかしから児童生徒のなかに「配慮係」みたいなよく気がつきすぎるやさしい子がいて、自分の勉強などを犠牲にして尻ぬぐいをしているうちに疲弊してゆく――そんな現実である。配慮の時代以前に、配慮ばかりやらされている人間は配慮されていない。教師のほうも、よく気がつくよい子扱いにして、その実、その子が集団内で奴隷みたいになっているのを放置しがちなのだ。以前だと、それを徐々に同級生がなんとかするみたいなことが起こっていたように思うが、最近は大学生みても誰も動かない傾向がある。意地でもケアする側にまわらない傾向である。これは学生からはっきり聞いたことあるが、「もう家事をするお母さん役はやらないようになってんじゃないか」と。でも君たちは実際に誰かにやらせがちだろ、と言ったら彼は黙っちゃったが、――子どもがヤングケアラーになってしまった場合の悲惨さが垣間見られた気がした。「ケア」する倫理には、イメージが不在なのである。むかしは辛うじて母親的なものがそれに当たっていた。それがなく、代替するものがない場合には、ただの奴隷労働だ。たしかに、儒教は親子道徳はそのことを示唆していたのかも知れない。