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昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
荘周と蝶には区別がある。同じものではない。物化は変化ですらない。世界を切断するように物化は起こる。突然蝶や人間があらわれる。それを眺める私のようなものはある。しかし物化が妄想や夢で起こってないとはいえない。経験を常に過去として経験する私はそれを確かめることができないからである。
こういうことに比べれば、AIの問題なんかは、下村寅太郎が昔いっていたように、我々が機械を自身のオルガノンとした結果起こった身体の巨大化に過ぎない。だから、AIを語る人間もどことなく大きいことを言ってみたくなる。それだけではない。最近、こういう記事もあって話題になっていた。
AI成果物が急増したことで「AI生成コンテンツをAIが学習するループ」が発生し「モデルの崩壊」が起きつつあると研究者が警告
AIが自分の生成物を学習しそれを学んだ人間が彼らに似てくる。やはり、AI氏も学校行ってるうちに劇的に頭がわるくなってゆくおれたちと一緒なのか。チャットGPTは、質問と回答の継続が知恵を生む(つまり「話せばわかる」)みたいな弁証法以前の発想である。今日は、自衛官候補生が発砲して人が死ぬ事件があったが、これは物化のようなものだ。これに対して「話せばわかる」みたいなのも、悪人は機械的に殺せばよいといつも思ってしまうのが人間である。
どれだけ時間をかければ我々は下村の「超克そのもの」に目を向けるようになるのであろう。一つの道は孤独であるが、それは屡々悲惨である。