★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

座談と論文に関するエトセトラ

2023-06-08 23:06:34 | 思想


告子曰、食色性也、仁内也、非外也、義外也、非内也、孟子曰、何以謂仁内義外也、曰、彼長而我長之、非有長於我也、猶彼白而我白之、從其白於外也、故謂之外也、曰、異於、白馬之白也、無以異於白人之白也、不識長馬之長也、無以異於長人之長與、且謂長者義乎、長之者義乎、曰、吾弟則愛之、秦人之弟則不愛也、是以我爲悦者也、故謂之内、長楚人之長、亦長吾之長、是以長爲悦者也、故謂之外也、曰、耆秦人之炙、無以異於耆吾炙、夫物則亦有然者也、然則耆炙亦有外與。

人は人に内にあり、義は人の外にあるという主張する告子に対して、孟子はなぜそう言えるのかなぜそう言えるのかと譲らない。しかしこれも決着がついていたのではなさそうである。対話というものはそういうものだし、もっと人数が増えてくるとえらいことになる。

今日は、「近代の超克」座談会について授業でいろいろ話した。この座談会についての評価はいろんなものがあるけれども、まずはそれが事前提出論文のあとの座談会であって、逆ではなかったことがいろいろと評価を左右したんじゃないだろうか。それぞれの人間が考えていることがうまく表現できずに例えば小林秀雄の啖呵に掠われてみたいな側面はやはりある。小林だってほんとは座談が好きな方じゃないと思う。あまりそういうことすら考えていないのが林房雄で、まじめな吉満義彦の言葉を遮って、「科学者は神の下僕となるべきと思っている」と言ってみたり、お前はヤンキーかよ、という感じであり、このヤンキーに配慮した座談の進行がすこしはある。

日本の座談会やシンポジムって、わりと勉強して臨んだ人を、世界と人間分かってるみたいなポジションの人たちがいじめる風がある。なんか吉満義彦なんかまじめでかわいそうな気がする。学会も大学も座談会化が進むとめんどうである。いろんな意味で現在に向かって書く人が多くなるとそうなる。知識人の文章なんか、いつ時代や人間によって発掘されてくるかわからないものであって、学問の進行などは一つの指標になってるかどうかも怪しい。そこで現れる差異というものを説明するのは容易ではない。

とはいえ、林がただのヤンキーだったかといえばそんなことはない。今日は、わたくし、もしかして、彼の『近代の超克』所収の論文「勤皇の心」の修辞を宇宙一詳しく解説したんじゃないか、と思ってしまうほど、――読者の肺腑を抉る堂々とした文章で、やはりこいつは文学者であった。こういうのを馬鹿にしている学者達は彼の内容しか問題にしていない。君たちの問題にしている神は、文学の言葉がなければ抜け殻にすぎんじゃないかと、一瞬思ってしまう迫力があるのである。しかし、座談ではそういう迫力がヤンキーのそれになってしまうのだ。本性かもしれない。

これに対して、西谷啓治の座談会の発言を読んでいたら、この人は案外、喋ったほうがいい気がするぞ。。対立する人がいたほうがいい気がする。