★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

征から逃げて

2023-06-22 23:04:34 | 思想


孟子曰、春秋無義戰、彼善於此、則有之矣、征者上伐下也、敵國不相征也。

「春秋」に正義の戦争はない。あの戦争がこの戦争より比較的マシというのはある。征というのは上が下を伐することだ。敵国同士がお互いに征服し合うことではない。

この点からいえば、現代にも正義の戦争はないことになるだろう。むしろ正義の戦争は、先生が生徒を𠮟るみたいなことにしかない。生徒が先生を尊敬しなくなったことは則ち正義の戦争がますますなくなったことを意味し、お互いは征服しあっているにすぎないということだ。とすると、正義とは、このような状態をやめる唯一の「戦争」の手段である。よく言われることでもあろうが、もはやこれは毛沢東やレーニンにとっての革命戦争と同じだ。もっとも、こういう革命戦争の生成は我々にとって、必然的であって、孟子も自信をもってこれは世の中の必然に過ぎないと言っているのだと思う。

20世紀では、このような上――革命戦争の生成を一旦生活や苦悩の線まで後退してからハンマーの跳ねかえりのように飛び上がることが必要だと感じられていた。しかし、いまは、それ以前に大谷翔平みたいな童顔の超人がヒーローに成り、癒やしと興奮を一度に与えるようなドラッグ的な効果をだしている。

わたしのように20世紀の感性を持ったものはそういかない。例えば、大谷関しても、「大谷翔平という名前がいいよな、これが小溝落凹だとおれが小さいときに自転車でどぶに嵌まったイメージしか思い浮かばない」とか呟く傾向があるし、この前商店街を歩いていたら、「今時の子は大谷みたいなカワイイ顔の子多いよな、育ちがいいよ」とか言うているおじさんたちに会ったので、「戦争責任を忘れたりなんとかするのは人民の常なのであれとしても、わが浅野君の顔を忘れたのか?」と心の中で呟く体たらくである。ネガティブなものに対してもそうであって、例えば、人間嫌いと称している人はたいがいそういうことを人に言うことが好きなんだろうとかすぐ考えてしまう。ほんとに人間嫌いの人がいるのに。

わたくし、小さい頃からいろんなことをやってみたいタチで、いろんなコミュニティに入ってみたんだが、なにゆえ自分の同じ嗜好なのにかくも合わない人が多いのかと思う経験が多く、――まあ許せるかなという業界にたどり着いたつもりがやはりそうでもないということで――いまや細と蛙がともだち、という感じである。

今日は、授業で、河上徹太郎の「近代の超克」関係の文章を解説したが、こういう韜晦に関して興奮するわたくしが注文して、今日届いたもの

 ・林房雄「神武天皇実在論」
 ・ガイヤー「馬鹿について」
 ・「悪魔のいけにえ」(DVD)


もちろん、これが私の趣味というわけではない。こういう生き方に何か問題があるのは明らかであるが、それも、孟子の言う下々の征伐にくだらなく巻き込まれたくないという意思の表れではあるのである。私のように、そのようなある種の忌避感情のまま苦悩している人々はおそろしくたくさんいるはずなのである。それをあまり上の立場からも、戦いの当事者の立場からも馬鹿にして欲しくはない。それなりにこうなる必然性はあったのである。