文学の生命は何か。悩める魂の友だといふ。それも亦休養娯楽だ、と私は思ふ。人々の休養娯楽に奉仕するだけでも立派な仕事ではないか。棋士は将棋によつて、職業野球家は野球によつて寄席芸人は落語漫才によつて人々の休養娯楽に奉仕する。まことに立派な、誇るべき仕事ぢやないか。よき棋譜により、よき野球により、よき演芸によつて人に負けない好サービスをなし人々をより多くたのしませるために心を配り技をみがき努力する。意義ある生活ではないか。
人々が私を文学者でなく、単なる戯作者、娯楽文学作者だときめつけても、私は一向に腹をたてない。人々の休養娯楽に奉仕し、真実ある人々が私の奉仕を喜んでくれる限り、私はそれだけでも私の人生は意味があり人の役に立つてよかつたと思ふ。もとより私は、さらに悩める魂の友となることを切に欲してゐるのだけれども、その悲しい希ひが果されず、単なる娯楽奉仕者であつたにしても、それだけでも私の生存に誇りをもつて生きてゐられる。誇るべき男子一生の仕事ぢやないか。
――坂口安吾「娯楽奉仕の心構へ」
しかし、実際のところ、彼の文学はそれほど娯楽的ではない。
子どもの頃、ソニー三大色物バンドなどがはやっていたのをみて、こんなサブカルみたいな、ある意味マイナーでなければならないものが面白がられて、ドス★エフスキーとかゲ♥テとか言うと、権威を押しつけるな的な声が沸騰してしまうのは何か変だと思っていたが、いまもあまりかわらない。読書は勝手にすれば良いが、文学の歴史は、思想、政治の歴史と同じで我々に少なからず知的な義務を課しているものである。その義務を負う権利が我々にはあるのだ。文学を人間のありかたの表出や娯楽としてのみ受け取るのは、文学を楽しむ権利で歴史の義務を放棄することにほかならぬ。
例えば、水戸黄門の光圀というと、テレビの俳優のせいか、どことなく好々爺みたいな感じになっているかもしれないが、昔の講談本の挿絵とかみると、眼光鋭い豪傑風なのもある。だいたい幼少期のエピソードで、さらし首をまったくこわがらずに小脇に抱えて帰宅しましたみたいな人物なのである。ただのおふざけであるが、――いやそうでもないのだが、東浩紀氏の、家族を基体とした観光客を左翼的ゲリラ?みたいに展開すると、水戸黄門になる。
こういうものも文学や思想の歴史である。
学者もつい義務を放棄する。学者の主張は普通に認識だと思われているが、その実、バッターがバットを振ることを身体の自然な動作に達するまで反復練習したのと同じようなところがある。我々は、ほんとに考えて下さいと自分に呼びかけることが必要である。
自分の感触としては、みんなが知っているであろうものがなくなってそれに喩えて説明することが不可能になったことはそれほど困ったことではない。すべてがトトロに喩えられる方がよほど問題だ。文化がつねに娯楽的なもののなかに埋没するのは進歩をやめているときである。戦時下が意外に文化の進歩を促すのは娯楽が抑制されている以上、案外当然だったのである。