
今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし
吉田松陰がわりとすきな人には数人会ったことがあるが、なんだろ、どちらかというと永遠に崛起しないような人であって、明治時代の官僚みたいなかんじさえ思わせる。なぜであろうか。
これに対して、『馭戎慨言』なんかの影響は尊皇攘夷以上にあったのかもしれない。馭戎が宣長の造語だとして、ウクライナやパレスチナにこういう造語みたいなものは存在しているんだろうか。ことばに牽引される戦争というのも滅びつつあるのかも知れないが。モナリザが日本に来たとき、それに向かってスプレーを発射した方の評伝である、荒井裕樹氏の『凜として灯る』を読んだが、きわめて平坦に散文的というより心情描写的である。つまりこれはことばが後景に退いた本である。最近の草莽堀起の本はそういうものが多い。
頑張ってる、を価値の最上階に置いている人々がいまの日本を良くもわるくも支えているわけだが、これも行為の結果を問わないだけでなく、そこにはことばがないのだ。下準備とかを一年でやるべきところを五年かけて丁寧なふくらませかたすると、いかにも研究っぽくなる。が、実際の研究スピードは鈍るしなにか精神的に堕落するものがある。ここにもことばの不在という問題がある。宗教に限らず、ことばはそういう時間の引き延ばしを許さないはずである。人生一〇〇年なんかもことばに対立するものである。