小畜亨。密雲不雨。自我西郊。 初九。復自道。何其咎。吉。九二。牽復。吉。九三。輿説輻。夫妻反目。
車体が車輪からはずれて夫婦が反目する。これは大変だ。密雲から雨は降らなかったが、車体がばらばらである。こういうことはよくある。
我々は環境に生かされている面があるが、こういうAなのにBみたいなことを避けたいが為、さぼったり勉強しなかったりするものである。むろん、密林も雨も車体も夫婦の中も、まったく関係がないのである。
戦時下、故郷が失われたとかなんだかといって、不安にすがったインテリたちがおり、それをこっぴどく批判した小林秀雄だったが、自分も全く無関係でないことを自覚していたのが小林の偉いところだ。しかしやつは所詮天下のエドッコである。故郷の喪失を文化の問題だと思っている。つまり、小林秀雄とか朔太郎とか故郷は既にねえとか自明の理をいっているけど、わたしをしていわしむるならば――美濃になったり尾張になったり名古屋になったり西筑摩になったりしている木曽のように、名前をしょっちゅう奪われたりしているところが逆に存在としての故郷感は増しているのだ。しかも、最近は、人口が減ってるので一緒になるしかないとか自虐的侵略のけっか、倍くらいの面積になっている故郷が増えている。
このまえ「池袋ウエストゲートパーク」ってのを少しみなおしたけど、当時もなんか懐かしいノリだなとおもってたが、いまやエレジーみたいなかんじすらした。まあもともと95年以前への追悼劇みたいなもんなんだろうけれども。こうやって、都会では空気感ごときがノスタルジーの対象となり、文化が滞留してゆく。こういうのをそもそも故郷がないというのだ。
たいがいの人間の郷愁は、土地へのそれよりも思春期を回想することに似ている。その思春期とは多くは原因がない破裂音みたいなものだ。満島ひかり氏は、このクソボケっみたいな口調の役から出発して急激に上手くなっていった。誰かが日本人の男の役者はすごく下手でもヤクザの役ならできるとか言ってた気がするけど、いちどああいう感じの演技を通過するのって重要かも知れず、そしてそれは思春期を通過するのとおなじなのであろう。そしてそこにあまり意味はない。