★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

群衆と機械主義

2023-10-08 23:58:49 | 思想
九三 伏戎于莽、升其髙陵。三歳不興。

兵士を草むらに隠し高陵で敵をうかがう。三年たっても挙兵できない。

もしかしたら、兵士たちはもう死んでいるのかも知れない。我々はショック状態にあると時間順も感情の起伏も失う。それを回復しようとするとかえって恨みだけしかないとか勝利感しかないみたいなロボット状態となる。二十世紀の機械主義が戦争と関係あったように、あれを美的に感じること自体はいずれ何かによって復讐される。

NHKのニュースで、イスラエルの件を暴力の応酬が止まらないみたいな言い方してたけど、殺し合い(これからはたぶんジェノサイド)の間違いではないだろうか。言うまでもなく、前者の言い方はロボット的である。風景としての戦争は、集団スポーツの観戦に似ている。集団のラクビーの選手たちが向かってきたら常識的に考えて逃げた方がいい。私がスキなのは、一人でトラックを引いたりするマッチョマンである。こういうもののほうが感情を対象に投影できる。サッカーやラクビーは人間ではなく、ボールと人間の関係の何かが動いているだけなので、なにか我々の感情は別のものに向かわないと落ち着かない。

ソ連の革命も集団主義の結果であった。そこでは、機械主義の芸術が花ひらいた。若い芸術家たちが、機械的なものに興奮した。ショスタコービチも多分そうであった。彼は群衆さえもポリフォニーで機械のように再現できると思った。その極点は、交響曲第四番の第1楽章である。ユロフスキとベルリン放送との四番を聴いていたら、むかしは散漫でおもしろくなかった第3楽章だけが、いちいち寸断されているが喜怒哀楽のようなものが描かれているような気がして、作曲者が音楽と感情の関係について考えているように感じられた。最後は感情を超えた絶望で終わる。たぶん、作曲者は、最後の絶望から、原因を青春時代にまで遡って検証して表現したと思う。

庭に出たら、変色し触覚がもげ、足も少し失ったオンブバッタのカップルが私の後ろで逃げていった。