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六五。厥孚交如威如、吉。
ビギナーズクラシックでは、この部分を「その捕虜をきつく縛り、おどしつけておけば、吉」と解している。果たして、吉とは何であろうか。どのような意味で吉なのか。大吉と吉は違うがプロセスのどこかであるすぎない。捕虜を縛ることと、君主が慕われることには繋がりがあるに過ぎず、同じではない。繋がりを否定できるわけではない。むしろ、吉とか大吉みたいな違いであって、善悪に還元できないものなのであろうか。確かに、われわれの世界は、善と悪を細かく切り分けるかわりに、このような物事の感覚を失った。細かく善悪に切り分けなければならないから、よけいに時間が切り分けられる必要が出てくる。ネット上の刹那主義はそういうことと関係がある。
AIとか聞いて人間がまけるとか勝つとか思っているやつはほぼ頭がAI化しているので、せめて田島列島氏の「ジョニ男の青春」ぐらいよんどけと。これをしかし、またロボットと人間の関係の戯画化とか言ってしまうからいけないのだ。
今日は高松市美術館に「20世紀美術の冒険者たち」展があったので行ってきた。ピカソの「ラ・ガループの海水浴場」がきてた。人だかりもできてた。あとひとつの人だかりは、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。これは印刷で見るより真っ黒に見えた。人間の顔よりも群衆のしかもつぶれた群衆のすがたにひきつけられ、みずから群衆となる人々。しかし、これも再秩序の欲望で、そこには案外、我々に欠けている「時間」があるものだ。