★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

甘言考

2023-10-21 23:17:06 | 思想


六三。甘臨。无攸利。既憂之无咎。


甘言で相手に臨むと、何の得もないが、態度をあらためて災難はなし。

これは一般論として容易に実現可能と考えられるかもしれないが、そんなことはない。人手不足だかなんだかしらないが、大学なんかが学生の就職戦線そのものに対して甘言を弄している場合がある。何の手先になるつもりなのか、ご機嫌をとっているつもりなのかわからないのだが、大学生はそこまで馬鹿ではなく、甘言を弄している人間を基本的に馬鹿にするものである。むろん周囲にいる大人も馬鹿にしている。しかし、そういう態度を表明する人間は少なく、始まるのは「計算」である。狡賢い計算をしがちな人間をつくりだすのは甘言なのだ。そうやってなめられた人集め係はどうするかといえば、権力を欲する。

かくして、ブラックなので人が集まらないとか言われている職業は大概徴兵に近い人の集め方になってゆくわな。で、ほぼ兵隊だから死んで恋みたいなことになるから人不足になる、という悪循環がはじまり、何が原因か分からなくなってしまうのである。こんな簡単なプロセスも、所謂「現場」にいると分からなくなるのが人間である。

仕事のやり方にたいする甘言も、一見リベラリズムを装っていても人間の現実を無視している限り詐欺である。仕事は適当にやって人には優しくみたいな生き方はなかなか難しい。たいがい、仕事ができない即ち人を蔑視している、みたいなことになりがちだ。だからワークワイフバランスみたいな発想でやってたら人間関係、ひいては社会がますますぎくしゃくしてくるわけである。当たり前のことである。

弱者救済みたいな甘言も、弱者との共生をうたっていてもそうである。弱者をみんなで支えていこうという発想には、一見弱者とは言えないような者も含めた人間の根本的な弱さという事態をちょっとなめているところがある。精神的な「健康」もそうだけど「健康」であれば強いというものではない。

本当は、そういうことが分かっているからこそ、我々はフィクションを使って夢に逃避する。例えば、「ウマ娘」というアニメーションを少し見たが、――あまりに速く走りすぎたので骨折して安楽死させられてしまった現実の馬をアニメで死なせなかったのは、いい話であると同時に、過労死する人間のほうが、馬に近い現実を示していると思わざるをえぬ。我々は、文字を習いすぎた結果、こういうカラクリが、単に虚構で楽しんでいるだけだという認識がおおきく現実から遠ざかるものであることを忘れる。

ポール・フライシュマンの『マッチ箱日記』という絵本がある。イタリアからの移民の語り手が、子供時代、まだ文字が読めないとき、アメリカで野球をみた。それは嬉しかったと言うしかないものだったが、理由は父親と一緒に座っていられることと「働かなくていいだろ」ということであった。それは娯楽ではなかった。父親との休息だったのである。野球は文字を勉強することと同様に難しかったと彼は言う。彼は植字工となるが、彼の思い出を形作る日記は最後まで文字ではなく、記念の「モノ」であった。――もっとも、作者は、文字文化をありがたがっているようであるのだが。

わたくしは、この絵本を古本で買ったが、――前の持ち主が漢字に全てルビを振ってくれていた。そういえば、以前、わたくしは、資本ということばを使ったら共産党員と思われた。我々の世界はそんな世界である。