
就職したからといって仕事が出来るとは限らないのは当たり前だが、案外その自明の理を想定しておかないから自分の無能さにびっくりというのがあるわけなのである。入学できたからといって卒業できるとは限らないのと同じで、というかそれ以上に、「限らない」のである。庇護する人間いなくなった状態を早く経験しないといけないのは昔も今も同じだ。最近は社会も社会事業意識化したケアの論理が、むしろ社会の学校化をおしすすめている。
学校化が進むことは、逆に学校の社会化が進むことの裏返された現象でもある。実際は対立物は、つねに総合浸透しているから、変容が起こるのだ。例えば、高野悦子/岡田鯛のコミック版『二十歳の原点』は、現代の大学生が、自分に目覚めて先生になろうとする話になってた。以前読んだときには、なんでそんな原作無視したことするのと思った。がっ、いまやみんながいやがる先生になろうとすることは、全共闘参加ぐらいには勇気のいることになったのである。闘争の場は学園闘争みたいにあらかじめ広場が与えられていたみたいなことよりも、もっと苛烈に、小学校や中学校で権力とのそれが実現してしまっている。
今日も授業で少し間違えてしまったが、つまり、経験を重ねたからといって間違いが減るとは限らないのも当然である。
我々は自分の人生の中でのみ、自分に価値を求めようとするからおかしいことになるである。ノーベル文学賞はもう宇佐見りんでいいだろ、と思う一方、宇佐見氏が真の価値が見出されるのが1000年後かもしれないし、永久にないかもしれないとも思うのである。これはまじめに思うのであるが、――文学も哲学もいつ価値が判明するのかわからんわけだが、平気で1000年以上かかったりするわけだ。没落しつつある西洋文明の記念にプラトン大先生にでも受賞させておくべきだ。