
かくて、致仕の大臣、かかることを聞きて、水も暖らず、泣く泣く言ふほに、「我、昔より、食ふべき物も食はず、着るべき物をも着ずして、天の下そしられを取り、世界に名を施して、財を貯へしことは、死ぬべき命なれど、難きことも、財持たる人は、心にかなふものなり。今は大臣の位を断ちて、ただ思ふこと、このこと一つなり。そのかなはずは、今は、わが財、あるに効なし」とて、七条の家・四条の家をはじめて、片端より火をつけて、片時に焼き滅ぼして、山に籠りぬ。
三奇人というのがでてきて、これはその一人であり、三春高基という。大臣になったのに、大臣は出費がおおいからやめて美濃の守になった。しかしあて宮が好きになると、新居を買い、あて宮の侍女にお駄賃をあたえて仲介を頼んでいた。しかしあて宮が入内すると上の如くだ。いきなりもう何もかも無駄だと言い、屋敷を焼き払って山に籠もってしまった。思い切りのよい男である。
しかし、山というのはどこのことであろうか。今日は、京の郊外に住んでいる妹のあたりもホワイトアウトみたいになっていた。最強寒波だそうである。
今日は高松のくせに木曽のような寒さであった。――しかし、関東平野や四国がひどく寒くなるときはだいたい風で体感気温が下がるパターンな気がするけれども、木曽は地の底から冷えて空気が凍ってる寒さみたいな感じである。やっぱちょっと違う。。。
寒い時代だと思わんか(ガンダムのなんとかっていう軍人)
少年兵が徴兵される時代に対しての発言だったような気がする。目標に服従させられた世の中では、コミュニケーションの言語が多義性すなわち感情を失う。それが意味が単一の命令と服従の言葉になってしまう。いま、家庭教育のなかに学校教育的なものが適用されているのが不安である。やっぱり親は教師ではない。家族の対面での付き合いでは正直な感情のやりとりがないと、これはそこでは言っちゃ駄目というものがわからなくなるんじゃないかなと思うのだ。親が教師みたいな技術で、まずは褒めて、みたいなのはだいたい将来的にみて失敗してる気がする。それこそ子どもの気持ちを考えたほうがいいのだ。感情的な言葉それじたいは暴力ではない。それが暴力的にみえる勘違いは非人間的である。
「新世紀エヴァンゲリオン」の、碇君が「ごめん」連発をやめる、綾波が「ありがと」みたいなこと言うのが成長でみたいなの、ちょっと変である。そういう奴もいるかもしれないけど、ふつう「ありがと」でなく「ごめん」をいかに適切に言えるようになるかが成長のあれだったりするんじゃねえかな。。。社会が学校化しているとはよく言われるけれども、たしかにそういう面はありそうだ。「ごめん」より「ありがとう」がよいと思ってしまえるのは、社会的存在が小学校の先生的な意味を持ってしまっているということかもしれない。