★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

娯楽としての芸能

2024-01-07 23:40:01 | 文学


この御博奕は、うちたたせ給ひぬれば、二所ながら裸に腰からませ給ひて、夜半・暁まであそばず。「心幼く御座する人にて、便なきこともこそ出でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物どもこそ侍りけれ。帥殿はふるき物どもえもいはぬ、入道殿はあたらしきが興ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせ給ひぬれど、斯様のことさへ、帥殿はつねに負け奉らせ給ひてぞ、まかでさせ給ひける。

賭け双六で、不穏な動きアリとみなされた人物をやっつける道長である。道長すごいみたいな話なのかも知れないが、こういうやり方それ自体が賭なのはいうまでもない。しかもこのような賭に出られること自体が賭の勝ち負けは問題にならないという脅迫として働く。いまも職場のスポーツ大会とかゲームなどはそういう働きを持っている。

感覚的には、だから、歌とか踊りとかの芸能はそれとは違う機能をもっている。それは勝ち負けの競技ではないからだ。しかし、たいがいそれらも分かりやすく競技化しやすい。芸能界はいつもそうなっている。紅白もM1もクイズ番組もそういう意味ではまったく同一物である。しかしそれにたいしても、白黒テレビの向こう側にオリンピックに遊ぶ人間を感じる小林秀雄のような人もいて、いまもいるであろう。

ゼウスといふ祭神を失つて了つた現代のオリンピックは、なるほど、妙な事になつてゐるやうだが、しかし、中味が、空つぽになつたわけではあるまい。ホイジンガで有名になつた「ホモ・ルーデンス」の姿は、生き殘つてゐる。(「オリンピックのテレビ」)

わたくしの家はかなり遅れていたので、ステレオが家にやってきたのは八十年代のおわりだったが、だからモノラルが家の空間でどのように聞こえていたかを覚えている。モノラルの方が、聞いている側との遠近感があるが、ステレオになると遠近感が消滅した。思うに、紅白もなんでもモノラルで聞くべき。小林が聞いていたのも、たぶん、そんなざわめきにすぎなかったがそれこそが人間を感じさせる。人間とは他者性である。紅白を家族でみるみたいな習慣が廃れたのは、内容にも関係してるだろうが、会場への遠近感が消滅して、ステレオの音が部屋の中で生々しく鳴ってて、家族の会話を阻害してしまったというのがある気がする。試しに昨年の放送をAMラジオのモノラル録音で聞いてみたんだが、けっこういいかんじだ。音楽が我々の生に接近しすぎることの弊害はさんざ論じられているとは思うが。。

一方、近代?の統制みたいなものも生き残ってはいるわけである。いまも文化祭や紅白歌合戦にはテーマがあるが、これは無駄な議題がふえるだけで必要でない場合はやめたほうがよい。たいがいスローガンとして劣悪で、潜在的な反感をもたらしている。こういうのを存続させておくとあるとき真面目な馬鹿がもっとテーマに沿ってやるべきとか狂ったこと言い出す。――もっとも、こういう現象も、現象に過ぎず、ホモ・ルーデンスであることが消滅するわけではない。例えば、わたくしも、さっき、何事も経験だと思い、よくアイドルとかがやってる♥マークを手でつくるやつじぶんでやってみたんだが、エイリアンの幼体がもぞもぞやってるとしか思えん。こんな行為と結末でさえ遊びなのである。そこには幾分かの演技が混じっている。音楽やってたころ、演劇のまねごとをやらされたことがあるが、メロディーを意味の固まりみたいに把握する練習だったと思う。――その意味で年末の若い女優ふたりのディズニーの歌唱は別に悪くないぞあれは女優さんがいつか王子様ガという演技をしていたのだ。それが視聴者の遊び心を撃つ。

先日、穂村弘の『短歌ください』を一気に読んだ。穂村氏以降のニューウェーブはおそらく、短歌の芸能化である。いまもある、短歌に対する反感というのは、小野十三郎や短歌否定論の時代に限らず、ある種の批評においていまもくすぶっている。それは叙情に対するものじゃなくて、松本人志的なものに対する何かだと考えると腑におちる部分があるものだ。現実の異化である意味では批評的ではあるが、そこで絶対に止まってしまうものに対する反感である。

とんねるずとかダウンタウンが部室とかストリートでたむろっている連中の雰囲気を体現させられたとすればこれからも似たようなタイプは出てくるんだと思うが、どことなく女性観?の錯乱の時代の所産であるような気がする。この錯乱はその時代が実際には終わっていても彼らが芸能界という現実で人を動かすような――天下を取ってしまう状態となると残響が大きい。彼らが全盛の時代テレビをほとんど観ていないのでわからないのだが、テレビはとっくに有吉とかマツコの時代にうつっていて、それもほんとは終わっている。政治的には右?と左に見えた、ダウンタウンと爆笑問題が一体化してあたかも転向したり顛落したりしているようにみえるのは、興味深い事態だ。彼らの芸は伝統的なものをふまえてはいるがより悪ふざけ的であって、これをいやがるメンタリティは彼らが出たての頃からあったし今もある。しかしこれにかわり得るものも別の意味での悪ふざけだと思う。真面目さや正義が取って代わることはない。(山田玲司のヤングサンデーで似たような立論があった)

森達也氏の皇室小説を読んでたときも、昨日の花山院の描写観たときも、ぎくっとして周りを見渡してしまったのであるが、まだわたしは右翼の襲撃に備えている。正義とおふざけは常にこういう微妙な緊張感のもとにあるに過ぎない。それがなくなったら全体主義になったということだ。

年末に亡くなっていたという中村メイコは、中村正常の子どもなんだが、おばあちゃんのイメージしかなかった。それに対して中村正常は、七高生の青春時代の回想に出てきたり、もう少しで坂口安吾みたいなユーモア小説のイメージで、私にとってはまだ青年のイメージであった。思うに、大正末期から昭和初期にあった若いユーモアがお笑いに変化して行く過程と、まじめな老境を弄ぶ娯楽としての歴史小説の勃興は、戦中戦後の文化の両輪であった。「七人の侍」とか「新・平家物語」の芸術性はかろうじてそれが娯楽であることに支えられていた。逆ではない。だから、いずれ娯楽の側面が全面化してしまうのは必然であって、ユーモアと混ざってしまう。さっきも、大河ドラマを観ながら、細に「大鏡」ではこうでとか、めんどうくさい副音声を入れていたら、画面から突然「お黙りなさい」と罵声を浴びた。誰だろこの人と思ったが、セーラームーンの人(三石琴乃氏)だった。いい罵声だった。――こんな感想も娯楽なのである。


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