★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

疎外と「やってくる」もの

2024-01-22 23:34:42 | 文学


話題の裏金問題について、――民間では、科研費では、俺の小遣いではとは、みたいな類比で語るのはそりゃ一理あるけれども、彼らそのものの問題として語らないとどうしようもないわな。問題はどうやって使ったか言えないという政治活動そのもののことであって、帳簿に記載しないミスしちゃいましたということではない。彼らはしかしどんなに破廉恥であってもただの人間である。我々の一部は、特に知的エリート層が少々育ちがよくなりすぎたせいか、不良だったり勉強ができないちゃらちゃらしているような人間のなかに、ものすごく知恵のあるやつがいて、周りの人間を味方につける能力なんかも高いやつらがごろごろしていることを忘れている人間が増えている。下の太宰治の言動は、アルペルガー的なものではなく、単に認識の疎外の問題として再浮上している。

つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

――「人間失格」


ある立件された政治家がこう言っていたらしい。「私は力をつけたかった。大臣になるほどの金を集めてやろうと思いました。金を集めることが必要なことだと思っていました。勘違いしていました」。もう少しだ、もう少しで太宰治みたいなかんじになる。

世のリベラルさんというのはお気持ち主義で誰かが傷ついたら謝ってしまう傾向がある。これに対して、「生まれてすみません」みたいないことを平気で言ってしまう連中は、太宰も含めて大いに傲岸な感じであって、上の政治家なんか、そのネットニュースでみた上のセリフよりもテレビでみた記者とのやりとりなんかは、謝罪というより逆ギレであった。もっとも、ほかのずるがしこいやつらから「お前生け贄になって自民党を救ってくれ」とかいわれているのかもしれず、冗談じゃないわけである。生け贄にも人権と表現の自由はある。人間ここまで追い詰められると、太宰治に接近する。つまり太宰は追い詰められていたのだ。疎外ではない。

これに比べれば、ほかの文学者は学者は一見慷慨はなはだしいかんじの口調であってもたいしたことはないのではなかろうか。昔、吉本隆明が愚鈍な古典学者が一生古典の原文を現代文並みによめるようになるだけに頑張ってて作品が逆に読めてないみたいなことを揶揄してたことがあった。しかもそこだけ切り取って喜んでた奴がおり、いまでもインテリを捕まえて最後は現実を知らないとかなんとか言うロボットのような奴がいるわけである。吉本は学生運動尻目に古典研究をうじうじしてたから良いような気がするが、なにゆえかように人を馬鹿にしたがるのかわけがわからない。結局は、吉本もその古典学者も現実からの疎外に悩む似たもの同士だということだ。

たしかに、世間では例えば、アートと科学の結合とかいうこれからモダニズムであとは戦争なんですかみたいな、一〇〇年遅れのコンセプトが、文学とか思想を排除を隠蔽するために使われていることがある。これに比べれば、金を集めれば大臣になれるかも知れないと思っている方が、はるかに人間的である。

こういう事情が観念的には理解できるからこそ、リベラルさんというのは、その疎外された側からのお気持ち忖度主義で誰かが傷ついたら謝ってしまう傾向がある。ハラスメントの流行には、根本的に疎外された感情という前提が存在する。そうではなく、追い詰められる必要があると考えたひとは、例えば、鳥飼茜の「サターンリターン」みたいなものを書くし、また読者であればそのようなものに惹かれることを否定できない。

我々がそういう疎外態であるとすると、つねに非暴力がつねに降参を意味してしまうことになりがちであり、しかしそうなったらもうおしまいなのだ。降参しないためには暴力をふるうしかなくなり、最終的にはテロである。それは必ず少数派である。ハラスメントがその連鎖であることはよく言われているけど、その起点にやはり屈服としての非暴力があって、抵抗の手段の欠如がある。

根本的には、いよいよ我々が生産者ではなくなったことをいろいろな原因とみたほうがよい。吉本も古典学者も生産者ではなかった。

もともと、学者もほんとはそうなんだが政治家や文学者は気質や趣味や正義を動機にしてやるもんじゃなくて、そうせざるを得なかったカルマがないとやっちゃだめな存在であるはずである。障害や悲劇やそれになるばあいもあるだろうが、より正確に言えば「もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」(吉本)みたいな死ぬほど恥ずかしいことを言ってしまえるカルマである。太宰だったら、「道化の華」の、「をかしいか。なに、君だつて。」みたいな五臓六腑が縮む恥ずかしいリズムこそカルマである。これらは、読者の五臓六腑が震えるほどあれなのであって、カルマがない人は、何か書いても単に恥ずかしい感じしかでないから、「お前やめとけ」と言わざるを得ない。最近の政治家のいい訳にもそのカルマのなさを感じる。

そのため、カルマは自身からではなく「やってくるもの」となる。そうではない「主体性」を目指すと、ネットだけでなく、現代の小説にも「怒りしかない」とか「感謝しかない」みたいなところに向かってしまうものがありふれていて、しんどい。また、ときどき、激怒した人間に対して、やたら権力志向や認識の浅さに原因を求めたりすることがあるが、非常に危険な見方で、ほんとに激怒した人間をなめており、――悲しみと同じく怒りもいろいろと深いだろうとさしあたり考えるべきなのに、そうはならない。――良心が残っている人間は、せいぜい神経質な雑さをきちんと書くようにしなきゃならないと考えがちである。神経質なら神経質で一貫するみたいなのはさすがにおかしいと感じられるからである。郡司ペギオ幸夫を読んでいておもったんだが、我々は「やってくるもの」に好意的なかんじになっていて、今回の裏金発覚なんかも自分でやってんのに「真実がやってきた」みたいな感じなんじゃないかなと思う。で、本人も案外うれしいのだ。――人ごとではないと思う。


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