★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

古文漢文廃止論の面をや踏まぬ

2024-01-17 23:47:14 | 文学


四条の大納言のかく何ごともすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿、「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれ。」
と申させ給たまひければ、中の関白殿・粟田殿などは、げにさもとや思おぼすらむと、はづかしげなる御気色しきにて、ものものたまはぬに、この入道殿は、いと若くおはします御身にて、「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」とこそ仰せられけれ。
まことにこそさおはしますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉り給はぬよ。


道長みたいに「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」――影なんか踏むか、直接面を踏みつけますよ、とか言えばまだましなんだが、影を踏んであいつより優れているとか言っているやからが多い。ネット民のことである。

すなわち、――現代は戯作的な戯れはあるくせに、維新の後のみたいに、遊女のところで英語ができるぜ自慢をして遊女の名前まで英語に訳そうとするバカみたいなのをからかう作品がないようにみえるのは面白い。思うに、あまりにバカすぎるとからかうことも難しくなるということというよりも、遊女に対面しているのと液晶画面とにらめっこしている場合の違いなのである。

思うに、我々の社会が反語なんかを理解しがたくなってるのも、それが漢文の反語表現の存在感が弱まったことと関係あるかもしれない。反語はお気持ちに一致する表現ではない。ある種の既製品としての武器なのである。漢文の文化はもちろん、対面に於ける恐怖を乗り越えてでてきているのである。液晶じゃ、その恐怖がないだけ、おきもちの吐露だけになる。

考えてみると、戦後、テレビの影響か、夜郎自大になりがちなメディア業界の肥大で、擬似ネット空間は既にあったのかもしれない。テレビにも映された、三島由起夫の自衛隊員を前にしての演説は、あたりまえなんだが現代の口語で、「シビリアン・コントロールに毒されているんだ! 諸君は武士だろう!武士ならばだ!自分を否定する憲法をどうして守るんだ!」という調子なのである。北一輝にくらべても革命がこの文体でできるかという。。。

もうかなり論じられてきたことだが、言文一致も近代叙述文体も永久革命的=強迫的な運動で、漢字からひらがなへの移行なんかもほんとはそうであるように思う。それは多様性の容認みたいなものとは違う。たぶん、役に立たない教科みたいな発想は、ある種の言文一致的な欲望なのであって、漢文や古文はあからさまに言文一致でないようにみえるから反発が大きいのであろう。しかし、文化というものはいつもその欲望に逆らっているものだ。

僕熟々方今の形勢を視るに、洋学に非ざれば、寧ろ学無からん。其の広大なるや五大州を併合し、全世界を一目し、天下の経済、全国の富強、政事と無く軍事と無く皆洋学に関せざる者無し。輓近建築の方法、衣服の制度、漸く洋風に遷り、茶店の少婦と雖も洋語を用ひ、絃妓の歌も亦洋語を挟む、亦愉快ならず乎。凡そ宇宙の間何物か洋学に帰せざる。


――「東京新繁盛記」


明治3年にしてこの調子であるが、これはおもしろ放言の類いであって、現実が決してそうなりきらないことは作者も知っている。しかしこういうのを行き過ぎとして本気で反発する人はいつもおり、またそれへの反発もある。そういう連鎖がはじまって今に至っているだけだ。

国語や英語、その他の教科もそうであるように、一生懸命勉強してもできるようになるとはかぎらない。漢文もいまにいまにいたるまで勉強してるがなかなかできるようになった気がしない。しかし漢文の世界を馬鹿にはしないようにはなる。勉強しないと、あるいはあまりにできないと、馬鹿にするようになるわけである。

この時期の古文漢文廃止論みたいなものは、入試へのルサンチマンにすぎないにしても、潜在的には、歴史的、文化的に根深いものがある。


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