現這鰐崎猛虎は、心術こそ直からね、年来数度の戦場にて、一番も後れを拿らず。然ばこそ、膂力は三十許人に敵して、船を駝いたる泉の親衡、鉄門を破りし義秀に、伯仲すという本事は違わず、器械拿っては義経にも、劣らざるべき犬阪毛野を、そが刄さえ払い墜して、掻抓みたる為体は、肉に饑えたる鵰の、雛猿を捉るに異ならず。投げ殺さん、と思いけん、掀たる儘に那這と、両三回持遶りて、矢声を掛けて投げ墜す
義経でメタファーエンジンに火がついた馬琴。毛野を持ち上げる猛虎を「肉に饑えたる鵰の、雛猿を捉るに異ならず」と評す。鰐なのか虎なのか熊鷹(鵰)なのか、はっきりしていただけないでしょうか。あと、犬と猿は犬猿の仲と言いましてな……
毛野は持ったる猛虎の、頸もて楚と受け住むれば、なおも撃たんと又振抗る、刄に先だつ首級の撃眼、縁連は亦眼を打たれて、叫苦とばかりにきたる
毛野雛猿は鰐虎鵰の首を取ったあと、縁連が再度打ちかかってくるのを、
刄に先だつ首級の撃眼
首で目つぶし攻撃をするとはすごいです。あの恐ろしいサロメでも、銀の皿の上のヨカナーン(首)を大切に扱ったというのに。
恐ろしさと言えば、わたくしが昔、西洋絵画の恐ろしさを感じたものの一つに、ギュスターヴ・モローの『出現』があるが、そこではなんだか知らないが、ヨカナーンの首が浮いておる。馬琴は、首そのものに対する執着が足りないのだ。すぐ投げつけたりして……
You're fired!
これも同じで、すぐ爆発させたがっている連中は今もたくさんいる。日本人も、首を刈るだけでなく投げつけたがっているかもしれないというのは、この場面から分かる。どちらも、人間に対する恐怖があるのだ。
主人のジュセッポの事を近所ではジューちゃんと呼んでいた。出入りの八百屋が言い出してからみんなジューちゃんというようになったそうである。自分は折々往来で自転車に乗って行くのを見かけた事がある。大きなからだを猫背に曲げて陰気な顔をしていつでも非常に急いでいる。眉の間に深い皺をよせ、血眼になって行手を見つめて駆けっているさまは餓えた熊鷹が小雀を追うようだと黒田が評した事がある。
――寺田寅彦「イタリア人」
我が国では、まだ外国人を人として扱いかねている文化が残っているが、――比喩を許さない距離まで接近するしかないとわたくしは思っている。