八犬士の懐旧感も一概に嘲笑されなくなりだした。八犬士には身の行末が当人の案ずる必要のないほどにハツキリしてゐる。我々にはハツキリしてゐないのだから、荒唐無稽ぶりが彼等よりも手頼りない訳である。
――正宗白鳥『過ぎ来し方』
むかし、『現代日本文学全集』の月報で青野季吉が言っていたと思うのであるが、――硯友社や「小説神髄」はいうまでもなく、江戸趣味の解放は近代文学の出発点の大きな要素な訳で、べつに現代だって、戯作化が進んだからと言って近代じゃなくなったわけではない。
そういえば、小泉譲の『小説天皇裕仁』はたしか一人称「ワタシ」の語りであって、語りが天皇だからというのもあるが、まだ語りをひっぱる人称にのっけるニュアンスについて、十分意識的である空気があったのだと思う。語り手論以降か何かしらないが、いまは逆になくなったきがする。語りが自意識の言い換えになってしまったところがある。ある意味、西原理恵子なんかの「わたくし」なんかには少し古風な語り手の色があったきがするがよくわからない。
2000年より前の昔の資料(仮想世界への誘惑)見てたら、最近出てきたヴァーチャルアイドルというのは、欲望の三角形みたいな仕組みに頼っていた「集客」にとって脅威だ、と言ってた研究者(元企業の人)がいた。しかも、人が集まらなくなるんじゃないか、しかし人間はやはり集まりたがるのでね、と述べてもいた。いまは結局、その帰趨である。
結局、近代文学にとって、江戸趣味の解放は、いまのネット仮想空間みたいなところがあったのだと思う。透谷の「想」と「実」がひっくりかえっているだけで。
海老坂武氏の『戦後文学は生きている』をぼおっと読んでいたら、なにかこれはこれで仮想空間のような気がした。高橋和巳の「わが解体」を言い換えているところなんか、ほぼAI的であった。こういうものに対しては、結局本物の仮想空間的なフィクションが一度大暴れしておく必要があったのだ。