「銀八十目にさしつまり、内証借りにして、その代りには、朝夕念ずる、弘法大師の御作の如来を済ますまで預け置くべし。うき世の恋はたがひ事、さる女を久しくだました替りに、いやといはれぬ首尾になりて、子を産ますうちの入目、是非に頼みたてまつる。平野屋伝左衛門様まゐる。賀茂屋八兵衛より。この文の届け賃、この方にて十文、魚荷にわたし申候」との断り書、「よくよくなればこそ、目安書くやうなる様書きて、はるばる十三里の所を、無心は申しつかはしけるに、しらぬ事ながら、これはかしてもとらさいで、京にもない所にはない物は銀ぞ」と、おのおの腹抱へて大笑ひ、しばらくやむ事なし。
クリスマスなので谷崎の「悪魔」を読んだりした。
ガンダムで人生を学びましたとか言っている人には共感しないではない。わたくしもドスト氏やツルゲ氏からじんせいを学んだ気がしないでもないからだ。しかし人生は人生から学ぶものだ。谷崎最高。
庭でカマキリが顔と腕だけになって死んでいた。サンタクロースが踏みつぶしたに違いない。
クリスマス契機とかいらない。おいしい納豆と目玉焼きでいいです。クリスマスに物語要素事典を嬉しそうに抱えて帰宅した私が家庭内不和という物語要素の事例を一つ増やしたことをご報告いたします。――むろん、嘘である。こんな本は隠れて買うに決まっている。サンタクロースの行事は、金のつかいどころは家族で共有すべし。欲望は人に伝えるべし。――という教育をやっているのだ。
そういえば、最近ネット上で、フーコーの『監獄の誕生』などにでてくるパノプティコン(全監視システム)に学校が含まれるのか、みたいな議論があった。家族の欲望など、サンタクロースで明らかになるのかもしれないが、集団は監視しがたい。だから、工夫して見張りのシステムを作り出す。最近の住宅なんかも、一階は1フロアーで家族を監視(ケア)することが堂々と推賞されていたりもする。そういえば、図書館も硝子張りの1フロアーのつくりが増えた。おちついて勉強なんかしようがない。そういうことが好きな人種は昔からいたので、むしろ我々にいつも必要なのは隠す知恵だ。
もっとも、どこかでフーコーも言っていたように思うが、学校はそこに適応出来ない輩をいつまでも留まらせる隙もちゃんと内部に作り上げるものである。日本近代文学をやっているわたくしとしては、全監視機構というと思い出すのが、「砂の女」で、主人公が女主人と性行為を衆人環視の元で強要されそうになるところや、いまだに読書した大学生たちに袋だたきに遭っている蒲団に頭ツッコんでいる時雄さんとかである。日本近代文学の作家たちは、全監視システムのイメージをそのままひっくり返して、平凡なゲス共の欲望を、暗黒の穴を覗き込む人々として図と像が反転するように描いて、いや読者に読ませている。
そういえば、ふつうに全監視機構のあれっておれの書斎に似てるよな。どうみてもわたくしは本に監視されている。
わたくしの周りの学生もパノプティコンといってもぴんとこないような囚人たちである。まったく、何回言ってもまだ分からないようなので、レポートを倍増することにする。もっとも、パノプティコンといってもわからない学生でも、志村けんの下ネタは、下ネタ以下の下ネタである、みたいなことはすぐ理解する。よってパノプティコンも、監視以前の監視とか、覗き以前の覗きとか言えばよいのではかろうか。しかし分かりそうもないので、断固決然レポート倍増だ。