予は其後、又堺君と共に『共産党宣言』を訳した、是はマルクス名著傑作であつた、議論文章堂々として当る可らざる者があるが、扨て訳して見ると我ながら其佶屈贅牙なのに恥入つた、此の失敗は、斯る世界のクラシツクとあつて、社会問題、経済問題研究者のオーソリーチーとする歴史的文章は、成可く厳密に訳さねばならぬといふ考へで、非常に字句に拘泥したのと、荘重の趣を保ちたい為めに多くの漢文調を混じた故である、昨年『総同盟罷工』に関する一書を訳し、今又た『麺包の略取』を訳して居るが、前に懲りて、極めて自由な言文一致にした。
一篇の文章の中でも、言文一致で訳したい所と、漢文調が能く適する所と、雅俗折衷体の方が訳し易い所と、色々あるので、若し将来、言文一致を土台として、之を程よく直訳趣味、漢文調、国語調を調和し得たる文体が出来たならば、翻訳は大にラクになるだろうと思はれる。
――幸徳秋水「飜訳の苦心」
廣松渉にはまる人は今もむかしも結構多いのであるが、わたくしが学んだことと言えば、論を確実にゆっくりにするときに使える漢語の言い回しだ。いま具体的に出てこないほど影響を受けた(いや受けてない)。こんなことを先日書いたように思うが、――まことに、まるで廣松の文章は外国語である。いや確かに日本語なのだが外国語である。
坂口安吾が古典は現代語で読みまくればよろしいと言っているのはある種の正論だったと思うのだが、安吾自身は古文をよめたと思う。で、いまや現代語訳をしつこくやらなくなった古典教育は、それがかつてどこかしら現代語への倫理も担っていたことが判明するわけであった。――適当な感想だが、日本語の書き言葉は根本的に翻訳言語で、飜訳行為によって語彙力を再生し感覚を拡大してきたんだとおもう。いまだってそうだ。雑な話だけど、鷗外や漱石以上に、日本の古典を再生して何とかしようとした硯友社の言文一致体との関係の密接さを想起すべきである。
この飜訳行為は、無論、注釈行為ともいえる。注釈の演習をやっていると、学生の報告が「いまネットで現在のこの話題に対してこういう情報がえられました。これはエビデンスなので正しい」みたいなことになることがある。同時代資料の誤った扱い(注釈のミス=つまり本文に対する飜訳のミスである)はそれが過去にたいする場合は案外おだやかにすむように一見思えるけれども、現代についての注釈をやってみると、けっこうなことを過去に対してやる可能性があるというのがわかる。もともとどういう意味でありうるのか、ということと、伝承や都市伝説や風評が一緒くたになってめちゃくちゃになる。ある種の学生にとっては、ある言説について似たような言説が存在していただけで、それが「正しい」ことに直結する場合がある。「みんなが間違えている」可能性がないことになっている。これによって、たしかに、その都度間違えて飜訳された意味が散乱することで面白いことも起こってきたけれども、いっぽうで他者性に対する倫理の問題は常に我々自身に引っかかってくる。だから、注釈行為を厳密にやろうとする姿勢はやむことがない。
多読してしまう有能さというのは必ず多読してしまう欠点と裏腹であるのも同じ現象と言ってよいであろう。オタクとか推しとかいろんな呼び方はあるがそういう現象を覆うものである。
これは、我々の自我の問題ともつながっている。自分もそうだったからあれなんだが、――若い頃は自分に当てはまらない(自分の注釈とならない)世の中の事情をあまりに軽視することが、自分からの逃避であることにあまり気付かない。我々は、思った以上に注訳による飜訳を多く必要とする。そうでないと、我々には何もないからだ。
教師という職業も注釈行為である。教育者があまり忙しすぎると、生徒や学生を知ることが人間や自分を知る(注釈する)ことであることからはずれ、多様性とか類型からの自由とか言って何かを認識した気になってしまう。むかしだったら普通にそれ、――観念論てやつであろう。注釈によって我々は自分やテクストを唯物論化するのであった。他人の多様性をキャラクターや属性の多様性だと思っているうちはかならずそれは差別(人間がきちんと注釈されていないために起こるのである)に行き着く。いまや重要なのは、少しいいこと言える奴が多くの間違えを抱えているような人格の不成立の方だ。人格の陶冶みたいなのがある種の教育を超えた治療になっていたことをおもわせる。