★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ニヒリズムと感情移入

2025-01-01 23:17:33 | 思想


文化形態学の上からシュペングラーは西欧の没落を推論しました。[…]アーノルド・トインビーやエルンスト・ユンガー等はシュペングラーから多くの指示を得たことはたしかです。これらの人々は暗い歴史と現実の中にまるで世紀の開いた花の様に輝いています。

――芳賀檀「ニヒリズムとその回癒」


わたくしはニヒリズムの中に素朴さがあるとかんがえるくちである。

例えば、大谷さんちの、犬と幼児服の写真、――なんというか、シュルレアリスムのこうもり傘と何とやらを想起させ、ようやく、大谷さんを応援する気になるというものだ。

よく言われてることなんだろうが、クラシック音楽のある種の訓練を受けると、articulationのあり方が意味不明に感じられ日本の歌謡曲は身体がもやもやする。このもやもやには、音楽が直接われわれを全身耳になれ(小林秀雄)と言ってくるからであろう。歌謡曲にアーティキュレーションがないとはいわないが、なにか音の直接性に対するニヒリズムが足りない気がする。クラシック音楽は、どことなく非音楽的なところから音楽に回帰する意識が濃厚である。

ハーバード・リードは、北斎の有名な「神奈川沖浪裏」をつかってリップスの感情移入を説明していた。この感情移入を我々が好きなのには、理由がある。しかしそれは北斎的なものを我々が持っているからではないと思う。もっと直接的なものに対する素朴さがあるからである。ニヒリズムをしった我々が、それをその素朴さの擁護に用いているからだとおもう。

加藤政洋氏は、『花街』で、私娼を置いてる店は田んぼをつぶして町を造るときのパイオニアであるみたいなことを言ってた馬場孤蝶を引いていた。一葉の「にごりえ」は、確かに、何か空間的に片田舎的な妙な感じがするなとはわりとみんな思うところだ。

我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ聲は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の聲は、人の聲、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも氣のまぎれる物なく、人立おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷く逆上て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。

この「廣野の原の冬枯れ」は幻想ではなく、すでにお力の現前にあったような気がする。この界隈事態が孤立的であるきがする。結末の場面――「恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者あり」だって、お寺の山という小高き處は黒々としている。感情移入は、黒い中に浮かんでいる街への視点の接近でありながら、我々はお力を論じるいろんな言葉で近代に対するニヒリズムを語る。


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