★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

寒くなってきました

2023-11-24 23:02:47 | 文学


僕はいつか苛立たしさを感じ、従姉に後ろを向けたまま、窓の前へ歩いて行った。窓の下の人々は不相変万歳の声を挙げていた。それはまた「万歳、万歳」と三度繰り返して唱えるものだった。従兄の弟は玄関の前へ出、手ん手に提灯をさし上げた大勢の人々にお時宜をしていた。のみならず彼の左右には小さい従兄の娘たちも二人、彼に手をひかれたまま、時々取ってつけたようにちょっとお下げの頭を下げたりしていた。………
 それからもう何年かたった、ある寒さの厳しい夜、僕は従兄の家の茶の間に近頃始めた薄荷パイプを啣え、従姉と差し向いに話していた。初七日を越した家の中は気味の悪いほどもの静かだった。従兄の白木の位牌の前には燈心が一本火を澄ましていた。そのまた位牌を据えた机の前には娘たちが二人夜着をかぶっていた。僕はめっきり年をとった従姉の顔を眺めながら、ふとあの僕を苦しめた一日の出来事を思い出した。しかし僕の口に出したのはこう云う当り前の言葉だけだった。
「薄荷パイプを吸っていると、余計寒さも身にしみるようだね。」
「そうお、あたしも手足が冷えてね。」
 従姉は余り気のないように長火鉢の炭などを直していた。………


――芥川龍之介「冬」


まあくどいほど言われていることだと思うが、いまの戦争についてはウルトラセブンの「ノンマルトの使者」を用いて教育できる。教育というのは、感情を教えるもので、中立性を教えるものではない。正しい感情というものが正しい論理をつくるにすぎない。

グレングールドの弾いた、ショスタコービチのピアノ五重奏曲はすごくメランコリックな感じがする。もしかしたら、こういう解釈がよいのかもしれない。ショスタコービチ本人の演奏はなんか羞恥心があってぶっきらぼうなのかもしれない。メカニックなショスタコビチというのは、上の中立性というものと一緒かもしれない。

この中立性こそが、無駄な二項対立を生じさせる。例えば、ゴジラ映画に人間ドラマがないとか人間の把握が幼稚だとか言うのは、浮城物語論争からまったく我々が進歩していないことを示している。こういうときにSFも文学だとかいう論陣を鷗外先生のようなインテリがこれみよがしに言ってくるのもゴジラ映画並みに反復されている。このフィクションはついにわれわれの見かけの中立性とやらを支えるようにもなってしまった。


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