
世継『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗、『げに説経・説法多くうけたまはれど、かく珍しきことのたまふ人は、さらにおはせぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。
現代語に訳すと、くどくどしくなるのだが、「たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし」なんか、一息でいう感じであって、説法菩提と日本紀はひとつの呼吸のなかにあって別々のものではないのであろう。だから、「年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり」となる。
むかし音楽をやっていたころも、音楽の呼吸を長く考えろ、みたいなことをよく言われた。音楽でさえ、われわれはぶつぶつに切って把握してしまう。聞くときでさえそうだが、演奏するときには体が苦しいということもあって、案外近視眼的になる。音楽の呼吸はワーグナーでなくても、長いものなのである。
最近の大学教員が疲れるのはいろんな理由があるが、明日は休日だと思っていたらなぜか授業があったりした経験から、休日前の酒飲みとか読書に気が入らないというのもひとつの原因だとおもうのである。これも、長い呼吸を寸断される現象である。ちょこちょこ休んでいてもだめなので、仕事は長い呼吸が必要だ。労働時間は自然にきまるのがよく、機械的に短く区切ればよいというものではない。これは我々みたいな仕事ではなくてもそうなのである。
歳をとったら古典に回帰するよ君たち、と学部時代に古典の先生によく言われたものだが、実際回帰すると回帰した理由とそのあとに興味が繋がって結局は今に帰ってくる。しかし、それは時間があればの話で、この円環する時間はのんびりした時間が存在していることが前提の話なのである。たしかに、古典に帰れば、ある程度その悠長な時間が強制されるのはあると思う。そうでないと、ある種の文士のように、永遠に現在にツッコミを入れるだけの存在になってしまうのだ。
大学のころ、九〇年代の半ばだったと思うが、――廣松渉「東北アジアを歴史の主役に」というのが、『朝日新聞』に載ったときのことを覚えている。「物質的福祉中心主義からエコロジカルな価値観へ」みたいなせりふにヘッと思った記憶があるが、いまよんでみるとこれは「当座のコミュニケーション」のためのせりふで過剰反応すべきではなかった。廣松の文章が、ああいう漢語を連発してなかなか読み進められないのも、問題はかれの文章を読む時間の恢復なのである。物から事への転換はかくして起こる必要があるわけである。
AIによって、過去の作家の作品をつくるなんて仕事は、過去を過去の儘で延長させるような企みで賛成できない。手塚は死んだから、我々によって円環の時間のなかで生きられるようになったのである。手塚のダミーによって生み出された作品はまた手塚を死に追いやることだ。わたしは子供時代にマンガをほぼ読んでいない。手塚治虫も「グリンゴ」を『ビックコミック』で少し読んだのが最初で、すごくおもしろかったのを覚えている。これに比べると、後に読んだ「ブラックジャック」なんかまだ自意識過剰なところがある作であって、金太郎飴みたいなところがある。AI新作だって似せれば似せるほどそうなる。手塚は、この作が傑作であるのも手伝って、時間よとまれ、と言っていると思うのである。これは手塚の現実の――リニアな時間における死であった。「グリンゴ」こそ続きが読みたいのでAI様がんばってくれたまへ。