
かまのような、お三か月、
早う、大きくなって、
お嫁入りの晩に、
まるい顔出して、
雲のあいから、のぞいてみい。
――小川未明「三日月」
よく言われるように、我々は欠損に耐えられない割には欠損に惹かれる。例えば、私なんかも青春時代に帰りたくはない。あげな無知で細胞がふさがったような感覚の悪い状態に戻りたくないからだ。しかし、未練がないわけではなく、恋愛ドラマにもあいかわらず心惹かれている。そういえば、ミシュレの『フランス革命史』には、最初の方で、ルブランのアントワネットの肖像画について触れ、女王の人を見下した感じがでていると主張している。しかしまあ、ルブランの絵というのはみんなそんな感じにみえるといえばみえるのであって、そのあまりに美形らしい美形すら、打ち壊すべきアンシャンレジウムを無理やり見出すための材料になってしまっている。ルブランの絵に、昔の恋人の理想を見出し、不満を漏らす中年男性は今も多いと思われる。これは革命への欲望が、打ちこわすべき対象へ憧憬とともにあることとあまり違っていない。
擬態の主体はまねる側にもまねられる側にもあり、結果をみる主体にもある。そして、そこには常に真似ない欲望も主体間を行き交うのである。
我々の日常でも、自分が馬鹿にされる理由というものは、「すべての人」がたいがい理解できないことが判明することがある。その不理解の極端な人をきっかけに判明するのであるが、それもある種の模倣かもしれない。模倣させているものは欲望であろうか、情報であろうか。
夢も大概は情報でできている。小学生に将来の夢を聞くと、サッカー選手とかユーチューバーとか医者とかがでてくる。しかし、こやつらの夢はこんなものではなく、**と結婚するとか**とデートするとか、**に遊びに行くとかではないだろうか。わたしの夢はぜんそくを治すことだった。そういえば、わたくしの田舎ではあまりに前情報社会だったためか、わたくしのまわりには医者になりたいとか公務員になりたいとかいう輩はひとりもおらんかった気がする。一番本気な夢を語っていたのは、明菜ちゃんと結婚したいやつと、小学校の頃だったら、赤レンジャーになるといってたやつである。最近の周囲の学者たちをみてみると大概、試験監督を辞めたいとか猫になりたいとか本気で言っている。
結論・夢は大概叶わない。
思うに、ピラミッドや古墳も完成に向かって制作されたようにみえながら、崩壊して自然の風景に戻ってゆく。月の満ち欠けのようなものだ。古墳が緑の丘に帰るのも人々の計画のうちだったに違いない。死後の世界を信じていようといまいと、モノの崩壊を信じなかったわけがないと思うのだ。これに対して人間の言論の世界は、永遠を夢みている。
鶴見和子がいぜん、「わたしの仕事」のなかで、自分の仕事の「筋道だけは通しておく」のだ、と言っていて、一瞬「筋を通しておく」んじゃないんだな、と思ったことをおぼえている。アカデミシャンにもいろいろいて、筋を通すみたいな労働者風の人と、筋道だけは通すみたいな貴族風の人がいると思ったものだ。いずれにせよ、大変に思い上がっている態度である。
真砂子君、「さは思へど、えぞあるまじきや。わがなからむ代はりに、上に仕うまつりへよ」など言ひわたるに、つひに、父君を恋ひつつ、亡くなり結ひぬ。母君惑び焦がれ給ふに、効なし。
言論を夢みる人々は、妻子がありながらあて宮に求婚し、息子を死なしてしまう実忠みたいなものである。