「言の葉も涙も今は尽き果ててただつれづれと眺めをぞするいでや、聞こえさすべき方こそおぼえね。ここらの年ごろ思ひ給へ惑ひつるところ効なく、人伝てならで、夢ばかりも聞こえさせてやみぬること。あが君や、雲居のよそにても聞こえさせてしかな。いましばしだにいたづらになし果て給ひそ」など聞こえ給ひつれば、御返りもなし。
あて宮の春宮入内が決定的になったので、求婚者たちはパニックになり、神仏にすがるものもおおくでた。最初の求婚者の実忠もうえのように歎く。川に身を投げようと、草木を見ては涙を流すのである。明らかに、過剰な行為である。コストパフォーマンスが悪すぎる。が、そんな風に考える奴は論外なのである。恋に落ちると、草木や川は我々の心を形作っていることがわかるし、草木は我々の内部にあり同時に包むものとして変容する。
若者たちが身につけるべきなのは、よく言われている、不確かな未来に対する思考力みたいな、わけわかんないものではない。この発想だと逆に、わけわかんないことはわけわからないから、とりあえず現在を乗り切ろうと我々は出力を最小にしてしまうものだ。しかし、仕事というものは根本的にどこまでやったらいいいのかわからない作業がほとんどである。それは相手が他者として現れているからで、根本的に恋愛と同じである。そのことは、どこかで学んどく必要があるのだが、それを回避することばかり推奨されている。コスパがよいみたいなやり方を実現出来ている者は、どうせ誰かにコストを払わせてパを自分が実現したかのように考える人間しかいない。これが増えてくると、逆にその誰かにより合理的に仕事を押しつけるために、「協働」だとかいうて、一気に仕事場が全体主義と化してますます上司や部下の弱い部分に仕事の押しつけが始まる。卒業論文となると、普通の授業のレポートに比してそれを遂行出来ない学生が増えているのは、頭や体力がおいついていないのもあるが、思想がおかしいのだ。学問にはやればよいことが決まっていないのに、勝手に決めているからである。この調子では同じように仕事も(恋愛も)できないに決まっている。
しかのみならず、むろん、学問が何か学問以外の目的に奉仕させられている状態だと、やることが決まっている訳だから楽だけど、ますます学問のパフォーマンス自体は落ちている。だから、それは職業訓練にもならないわけであった。なぜ、こんな簡単なことが分からなくなってしまったのか。

「まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。」
「それはだれでもない、そういうねずみさんさ。わたしがいくらまっ四角な顔をして、固くなって、がんばっていても、ねずみさんはへいきでわたしの体を食い破って、穴をあけて通り抜けていくじゃないか。だからわたしはどうしてもねずみさんにはかなわないよ。」
「なるほど。」
とねずみのおとうさんは、こんどこそほんとうにしんから感心したように、ぽんと手を打って、
「これは今まで気がつかなかった。じゃあわたしどもが世の中でいちばんえらいのですね。ありがたい。ありがたい。」
とにこにこしながら、いばって帰っていきました。そして帰るとさっそく、お隣のちゅう助ねずみを娘のお婿さんにしました。
若いお婿さんとお嫁さんは、仲よく暮らして、おとうさんとおかあさんをだいじにしました。そしてたくさん子供を生んで、お倉のねずみの一家はますます栄えました。
かんがえてみると、昨今のコスパ論者は、偉いというカテゴリーをもとにしてねずみが一番偉いというところに漂着してしまう馬鹿ねずみに似ている。本心はコスパ、コストパフォーマンス云々ではなく、結局偉くなりたいだけなのである。
あて宮の春宮入内が決定的になったので、求婚者たちはパニックになり、神仏にすがるものもおおくでた。最初の求婚者の実忠もうえのように歎く。川に身を投げようと、草木を見ては涙を流すのである。明らかに、過剰な行為である。コストパフォーマンスが悪すぎる。が、そんな風に考える奴は論外なのである。恋に落ちると、草木や川は我々の心を形作っていることがわかるし、草木は我々の内部にあり同時に包むものとして変容する。
若者たちが身につけるべきなのは、よく言われている、不確かな未来に対する思考力みたいな、わけわかんないものではない。この発想だと逆に、わけわかんないことはわけわからないから、とりあえず現在を乗り切ろうと我々は出力を最小にしてしまうものだ。しかし、仕事というものは根本的にどこまでやったらいいいのかわからない作業がほとんどである。それは相手が他者として現れているからで、根本的に恋愛と同じである。そのことは、どこかで学んどく必要があるのだが、それを回避することばかり推奨されている。コスパがよいみたいなやり方を実現出来ている者は、どうせ誰かにコストを払わせてパを自分が実現したかのように考える人間しかいない。これが増えてくると、逆にその誰かにより合理的に仕事を押しつけるために、「協働」だとかいうて、一気に仕事場が全体主義と化してますます上司や部下の弱い部分に仕事の押しつけが始まる。卒業論文となると、普通の授業のレポートに比してそれを遂行出来ない学生が増えているのは、頭や体力がおいついていないのもあるが、思想がおかしいのだ。学問にはやればよいことが決まっていないのに、勝手に決めているからである。この調子では同じように仕事も(恋愛も)できないに決まっている。
しかのみならず、むろん、学問が何か学問以外の目的に奉仕させられている状態だと、やることが決まっている訳だから楽だけど、ますます学問のパフォーマンス自体は落ちている。だから、それは職業訓練にもならないわけであった。なぜ、こんな簡単なことが分からなくなってしまったのか。

「まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。」
「それはだれでもない、そういうねずみさんさ。わたしがいくらまっ四角な顔をして、固くなって、がんばっていても、ねずみさんはへいきでわたしの体を食い破って、穴をあけて通り抜けていくじゃないか。だからわたしはどうしてもねずみさんにはかなわないよ。」
「なるほど。」
とねずみのおとうさんは、こんどこそほんとうにしんから感心したように、ぽんと手を打って、
「これは今まで気がつかなかった。じゃあわたしどもが世の中でいちばんえらいのですね。ありがたい。ありがたい。」
とにこにこしながら、いばって帰っていきました。そして帰るとさっそく、お隣のちゅう助ねずみを娘のお婿さんにしました。
若いお婿さんとお嫁さんは、仲よく暮らして、おとうさんとおかあさんをだいじにしました。そしてたくさん子供を生んで、お倉のねずみの一家はますます栄えました。
――楠山正雄「ねずみの嫁入り」
かんがえてみると、昨今のコスパ論者は、偉いというカテゴリーをもとにしてねずみが一番偉いというところに漂着してしまう馬鹿ねずみに似ている。本心はコスパ、コストパフォーマンス云々ではなく、結局偉くなりたいだけなのである。