★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

素朴ということ

2023-01-22 20:02:14 | 文学


かくて、侍の君も、参り給へりし日、なくなり給ひにしかど、御消息に懸かりてありつる、御思ひは月日に添へてまさり、身は弱くなりつつ、え堪ふまじくおぼゆれば、あて宮に、かく聞こえ給ふ。
「いひ出でてもつひにとまらぬ水の泡をみごもりてこそあるべかりけれ
かくまで、聞こえであるまじくおぼえしかば、聞こえ初めて。 侍らざらむ世にも、いともいともいみじう厭はしければ。 いや、あが君の御ためには、身のいたづらになりぬるも思ひ給へず。いま一度の対面賜はらずなりぬるを思う給ふるなむ」
と聞こえたり。あて宮、見給ひて、あるがなかに、いかでと思ひ聞こえし人の、あやしき心の見えしかば、つらしとはおぼえ給ひしかど かう、心細くのたまへること、心憂く、など、この君にしも、かく思されけむなど思して、かく聞こえ給ふ。
「同じ野の露はいづれもとまらねどまづ消ゆとのみ聞くが苦しさ
かく承るも、いとほしうなむ」
と聞こえ給ふ。侍従、見給ひて、文を小さく押しわぐみて、湯して飲き入れて、紅の涙を流して、絶え入り給ひぬ。殿の内揺すり満ちて、惑ひ焦がれ給ふこと限りなし。


あて宮は実の兄からも愛されていた。兄は妹を恋い焦がれて死にかけている。「秘めた思いは水の泡のようなものだ。秘めておけばよかった」という彼の手紙を読んだ妹は「同じく露のように消えてしまう身ではありますが、兄上が先に消えてしまうのはつらいです。申し訳ないです」みたいな返事をする。これを読んだ侍従はこれを小さく丸めて飲み込み、眼から血を流しながら死んでしまう。屋敷のなかは大騒ぎになった。

侍従が妹からの微妙な手紙を飲み込んでしまうのがすごい。それにしても、兄の妹へ手紙にしても妹の返事にしても、そしてそれを届けるよりは死を選ぶ侍従にしても、あまりにも単線的に死に向かいすぎである。酒をくらって憂さを晴らすとか、他の相手を探すとか、――柄谷行人の「単独性」にさからうようであるが、そんなあり方がありえないのはちょっとおかしいと思うのである。我々は死に向かうときにあまりに屈折がない。大きく傷ついて心がふたがれたら死ぬのが許されるとおもうのか。ここに我々はなにか心を越えた重力を感じざるを得ない。

たとえば、伝説によれば、義仲殿は、仏足石のブッダじゃあるまいし岩に足跡がつくほどの馬にお乗り遊ばしていたそうであるが、そんなのにのってりゃ、田んぼの氷もわれて沈むにきまっとるやないかと。。。義仲は、なにか都の空気にあてられて死に急いだところはないであろうか。

自然の事を自然の順序に考えて行くと、万事が否定的のフン詰まりになる(夢野久作「夫人探索」)


Pなんとかサイクルの説明としてこれほど適切なものをみたことないきがするが、それはともかく、人生は成り行きに素直すぎると、「万事が否定的のフン詰まりになる」のである。わたくしも心が汚れているためにときどき、「小さな恋のメロディ」でも観てしまうクチであるが、ガキは勉強してなさいと思うことも確かである。勉強は、あて宮のアニキのようにならないためにやらねばならない。それは通俗性を拒否すると言うことで、素朴なものを切り捨てることではない。

戦後の歴史は、素朴なものが通俗的におちてゆく世界であった。三島の小説の通俗性はしばしば言われるけれども、戦後派というのは、近代文学派は特にと言っていいのかも知れないが、頽廃性よりもかなり通俗的なるものに向かっている。いずれこれは市民性みたいなものに換言されてゆくものであった。かかる見方だと梅崎春生のセンスの良さみたいなものは隠れちゃうんだけど。。学生に研究してもらうとなんとなく感じるのだが、戦後派の小説は芥川にあったような「解釈」を通過させずに、なるべく誤読させないようにできてるものが多い。戦後の解放は、解釈を必要とする文章の屈折をも解放してしまった面があるかも知れない。むろん大衆化路線もからんでるんだろうが、根本的にはそういう問題とは思えない。


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