其の所説の法門の極理は、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。善き外道は五戒・十善戒等を持ちて、有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返って三悪道に堕つ。一人として天に留るものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずとをもえり。各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。
「上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼ」るというのが、なんとなくかわいらしい感じがするのも、それが外道ではあるけれども内道に入るためであろうか。うちの庭におった尺取虫も冬を越してどこに行ったのであろう。たぶんどこかで無事に暮らしているに違いない。
悟りとは認識ではなく、一種の諦めでは無かろうか。わたくしの小1のときの絵日記にも、人は虫と一緒ですぐ死ぬとか書いているので、案外人間、悟るのは簡単であるようだ。悟っているからあとの長い人生がかえって苦しいともいえる。よく、30ぐらいになって、人がわかりあえないことが分かりましたみたいなことを悟る人が居るが、こんな程度の事を思春期以前に認識できないんだとしたら相当面白い教育を受けてきたとしかおもえない。我々は、確かに小学校などに行って、「上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼる」みたいなところがある。「或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。」――たしかに、小学校の教育みたいである。しかし、これが外道であっても内道に至ればよいのだ、と思って中学にゆくと、これはこれでもう一回虫的な修行が待っている。小中接続とかいっている人は多いし、確かに分かる部分もあるけれども、実際は、中学の小学校化が起こっていて、意図的に幼稚にさせられている側面もあると思うのだ。思春期だからいらいらしてるんじゃないんだよ、幼稚な強制にいらいらしているやつも多いのだ。
最近は、さすがにこういう誤った修行に対する懐疑が向けられ、――而して、我々は全人的教育は無理なんじゃないかと思い始めたせいか、長所とやらを伸ばせみたいな考え方もある。確かに職場で人を育てるというのは、何か使える能力を整えるということなんで、まあ長所を伸ばす方向性でもいいと思う。職場は確かに野球チームに似ているからだ。がっ、子どもを育てるというのはどうみても別もんである。使えない部分のカバーの仕方を考えるということを外せない。今の社会、はやいうちからチーム内人間としての人間教育と子どもの教育を混同させられて、結果、自分が使えないやつだと思う傾向あるね。しかも自分以外のやつが勝手に長所を決めている。親や教師は上司にあらず。
そういえば、大学の世界で管理職の育成が難しいといわれており、確かにそう思う部分もある。思うに、就職して一回教える大学生の精神年齢にまで退行する傾向があることと関係がある気がする。だれでも急に屈歩虫としては人間になれないのであった。
戦後、我々が子供じみている理由は戦前の社会の馬鹿さや戦争にあるような気がしていたのだ。もしかしたら、鎌倉仏教の英雄たちもそんな気がしていて、頑張っていたのかも知れない。しかし、事態はもっと深刻で、本質的であったとしかいいようがない。我々は、半端に教育や成熟を考えすぎている。まだいい加減にほったらかしたほうがましだったと、仏教者たちはインドの修行者たちを見て思っていたのである。