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鶴尾神社の室山方向、奥の池に面した山の縁にあります。天気が悪かったので、何か恐ろしげなオーラを感じました。
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結構大きいのです。
出雲神社は、日本の神社の中で別格の存在で、有名なのは、明治のはじめの「祭神論争」、すなわち伊勢派と出雲派の対立である。伊勢派が造化三神とアマテラスを事務局神殿に祀ろうとしたところ、出雲派が大国主を入れろと主張。宣長の顕幽論というのがあり、記紀の読解から得られた二分法、目に見える「顕世」と目に見えない「幽世」の対立が、高天原から降りてきた天皇の系譜と、地上の支配者であった大国主に振り分けられたわけである。
高天原から来た連中は、武力で大国主の息子達を屈服させる。タケミカヅチなんか波の上に剣を逆さにつきたて、その切っ先にあぐらをかいて大国主に「国をよこせ」と迫ったのである。常識的に考えて、こいつは完全にイカれておる。大国主は、うさちゃんなんかを救ってしまうような優しい男。こんなイカレた奴の相手はイカレた自分の息子に任せようとして、その二人のうち、乱暴者の息子に処理を任せた。しかし、相手は完全なサイコ野郎。タイマン勝負だということで馬鹿正直に向かっていった息子さんに対して、手を剣に変化させて(汚え)、長野県の諏訪まで追いかけたのである。追い詰められたその息子が、「もうここから出ませんので」と、諏訪大社の祭神になっていることは有名である。おかげで、諏訪では御柱祭と言って、大木を落とすだけのヤケクソなお祭りがあるが、サイコにあってしまったトラウマはなかなか治らないのであった。そして、そのサイコパスであるが、
「夫れ汝が治す顕露の事は、是吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。」
と、非常に汚いレトリックを使った。自分を神様だと思っているやつが、相手を脅しながら、「おれ(神様)がお前の代わりにこの世は仕切るぜ。お前は死んで
「お前たちやっていた学内自治は、今後ガバナンス専門の学★(バックには暴力機構がついております)が行います。お前らは、学問の神様になって頑張って~(笑)
という感じである。それはともかく、霊界専門職となった大国主が出雲に巨大な神社を作ってもらい……デカすぎて台風で倒壊しながらちっちゃくなって今に至る。で、宣長の弟子の平田篤胤は、弟子たちの中で孤立しながら、独特な神秘思想を展開する。その霊界はどこにあるのか?黄泉の国にはなく、この国土にある。あまりに「幽冥(ほのか)」なので目に見えないだけで、我々の現世とは不即不離なのだという訳であった。この考え方に果たしてどれだけのオリジナリティがあるのかしらないが、――平田篤胤によって「幽冥」世界の存在を確信した人々はかなりいて、しかもそこにその「幽冥」に込められたルサンチマンを感じ取り、おれは神事に引っ込んだ訳じゃないぜ昔の恨み忘れまじ、という怒りを、明治時代の伊勢派は出雲派の恐ろしい剣幕に過剰に見て取ったのである。結局、いろいろと手を回して出雲派を神道の中心から追い出してしまったわけであるが、いまや、大国主は神仏習合していた「大黒さん」としての親しみやすさ、因幡のうさちゃんを助ける心優しき男(だからなのか、一八〇人以上お子さんがいる)として、そして、形而上でもなく形而下でもない「コミュニケーション能力」みたいな幽冥力が必須であるところの縁結びの神様として、伊勢派よりも信頼されてるくらいだ。確かに「縁」というものは、そんな目に見えない、いや少しは見えそうなものである。
そのあるかないか分からんという意味では、十月に全国の神様が大国主のもとに集結するという伝説も、確かにありそうでないかも、ないようであるかも、という日本の神様の性質をよくとらえている。だいたい、いつも神様達はどこであぶらをうっているのか、まったく姿がみえん。天皇は、――あれはこの前「人間です」と白状してしまったので、確かに大国主を脅した連中の顕露的首領の子孫であることが明らかであるが……。しかし、むりやり見ようとすれば、平田篤胤の亡霊が復活して、大和心や尊皇何とかみたいな「亡霊」が暴れ出すであろう。
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本殿
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宮司さんといろいろお話しする。高松分祠がここに出来たのは、昭和五八年だそうだ。全国にどれだけ出雲大社があるかもお聞きする。ここは山の縁にあるけど、分祠や教会がある場所はなにか意味があるのかとお聞きすると、特にないと言われた。
「四国のおしえのにわ」というパンフレットを見ると、四国には十五の出雲大社教会があるようだ。戦国時代から出雲大社の「御師」が布教活動していたようだ。お守りとか下の物を買ったりする。
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わたくしは、縁結びとかはもうどうでもいいので、獅子とかが可愛ければそれでよい。これは「獅子頭」。振るとパチパチと口がなる。細君が思い切り何回もならしていた。わたくしは、もらった出雲神社の月刊新聞『幽顕』一年分を読みふける。なんだか、いい意味で学級新聞みたいな感じの新聞であった。