★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

わが手におぼえたるかな

2023-01-13 23:18:20 | 文学


ただ今、 誰ぞや、かばかりの、思ほえぬなど驚きて、帝・春宮聞こし召す。藤中将、誰ならむ、わが手におぼえたるかな、あらじと思ふものをなど、ある限りの人、驚くこと限りなし。春宮、「仲忠の朝臣聞くに恥づかしからぬ手かな」とのたまふ。大将のおとど、涙を落として聞き給ふに、皆人、あて宮なるべしと思ひぬ。


まるで自分の手の感覚のようだ、と思ったのかはしらないが、音は肉体の動きまでわれわれに伝えるものである。音楽が音だけではなくそれを間接性にはじき出している肉体を感じさせるというのは、その間接性に焦点があるような気がする。それは琴であって琴でない、肉体を音楽的「手」に変形させる。歌手がマイクを使うようになってから、それは金属的ななにかを交えるようになったような気がしたが、――それはテクノミュージックを初めて聴いた世代の感覚かも知れず、本当は、そういう間接性があるほど我々は歌手の音楽としての生身を感じるのかも知れない。

これまでの生涯において、しばしば同じ夢が僕を訪れたのだが、それは、その時々に違った姿をしてはいたが、いつも同じことを言うのだった。『ソクラテス、文芸(ムーシケー)を作りなし、それを業とせよ』。[…]僕は、哲学こそ最高の文芸であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからだ。しかし、いまや裁判も終わり、神の祭が僕の死を妨げている間に、僕はこう思ったのだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味での文芸をなすようにと僕に命じているのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を立ち去る方が、より安全であるからだ。こうして、先ず、僕は現にその祭が行なわれていた神アポロンへの賛歌を作ったのだ。それから、神への賛歌を後で僕は考えた。詩人というものは、もし本当に詩人〔作る人、ポイエーテース〕であろうとするなら、ロゴス〔真実を語る言論〕ではなくてミュトス〔創作物語〕を作らなければならない、と。

――プラトン「パイドン」


これが音楽でなく、文芸であることが、――当時私はプラトンを読んでいなかったが、高校生の頃感じていたことだったかもしれない。音楽は、音と間接性と肉体を想起させるが、分離的にさせてしまう気がした。それはわたくしが、ピアノやトロンボーンを演奏していたからでもあったかもしれない。わたくしにとってそれらの物体はコントロールしがたいものであった。そう思って容易に、文藝の想像の世界に移行してしまう青春人達がいかに多いことであろう。プラトンにとっては文芸は全体性の謂であり、それはそれを先取らない形でしかも先取る行為として行われる。


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