暑さには、シュトックハウゼンの「グルッペン」がいい。
わたくしは長野県の木曽出身なわけだが、この地方は非常に名称が変わってきたところで、確か鎌倉時代までは美濃国に属し、そのあと信濃国に、江戸期には尾張藩だったし、明治に入ってからは名古屋県、伊那県、筑摩県と変わったあげくに長野県に入って今に至った。しかし、はじめから木曽というわけではなく、明治以降もずっと西筑摩郡だったのが、昭和40年代にやっと木曽郡になったのであった。とはいえ、平成に入って楢川村が塩尻に入り、山口村が岐阜の中津川に入ったり(すなわち、島崎藤村とかいう御仁はいまや木曽人でも信州人でもない。もともとこの方は木曽で育ったわけでもないし、木曽で活躍したわけでもない。たとえば、「破戒」を書くときに、木曽を題材にするような勇気は彼にはなかった……)、残った内部でも町村合併が進んで開田とか三岳とか日義といった村がなくなったりしている。私が生まれ育った木曽福島町もいまやなく、木曽町になった。(ついでに私の母校の木曽高等学校もなくなりました。木曽青峰高等学校とかいうのになった。アーメン)とはいえ、木曽福島町ももともと福島村(岩郷と福島)と新開村(上田と黒川)があわさったものだった。私の遠い記憶だと、確かに、福島と上田と黒川は小学校も別だったからかもしれんが、全くの別の世界で、言葉も顔つきも違っていた気がする(ほんとかいな……)まあ、共同体と文化と政治は複雑だなあ……というか、弱い共同体は常に翻弄されるというこっちゃ……
言葉と言えば、ずら弁なところは静岡とか山梨と似ているし、疑問型に「かや」を使ったりするのは松本に似て(うちの母が松本出身だからか?とするとうちだけだったか……)、「ずく(が)なし」とか言うところは広く長野県の傾向に属している。尾張だったこともあって、名古屋の方の言葉もずいぶん入り込んでいるようでもある。とはいえ、かく言うわたくしは、山梨弁も名古屋弁も茨城弁もある程度はしゃべることができるし、数年前香川県にやってきたというので、待ってましたとばかり「なんでやねん」と会話に入り込んで顰蹙を買ったことも今は昔、ある程度讃岐弁も解し、関西弁のイントネーションも身につけつつあるが、帰省すると木曽弁風になる。だいたい「ずくなし」だって、古文に確か例があるから、昔は全国区の言葉だったのかもしれず、「ずら」や「かや」は言うまでもなし。んだもんで、私が井上ひさしの『吉里吉里人』を読んだときにやや疑問だったのは、吉里吉里語というのは、独立国の言葉になるほど本当に独立しているのかということであった。
というわけで、下の写真はイタリア
言葉と言えば、ずら弁なところは静岡とか山梨と似ているし、疑問型に「かや」を使ったりするのは松本に似て(うちの母が松本出身だからか?とするとうちだけだったか……)、「ずく(が)なし」とか言うところは広く長野県の傾向に属している。尾張だったこともあって、名古屋の方の言葉もずいぶん入り込んでいるようでもある。とはいえ、かく言うわたくしは、山梨弁も名古屋弁も茨城弁もある程度はしゃべることができるし、数年前香川県にやってきたというので、待ってましたとばかり「なんでやねん」と会話に入り込んで顰蹙を買ったことも今は昔、ある程度讃岐弁も解し、関西弁のイントネーションも身につけつつあるが、帰省すると木曽弁風になる。だいたい「ずくなし」だって、古文に確か例があるから、昔は全国区の言葉だったのかもしれず、「ずら」や「かや」は言うまでもなし。んだもんで、私が井上ひさしの『吉里吉里人』を読んだときにやや疑問だったのは、吉里吉里語というのは、独立国の言葉になるほど本当に独立しているのかということであった。
というわけで、下の写真はイタリア
ある演習では文学史のトピックについて学生にレジメを作ってもらうことにしてるのであるが、「ライトノベル」を報告してきた学生が上を論じていたのでわたくしも炎暑のなか読んでいるのである。……なるほど、学生の小説の読み方のクセの原因が少しわかった気がする。それにしても、何だろな、この中学生の作文臭……。
原作にもないキャラクターを演じ、若き文士の卵様役の森山未來に頭突きを食らわす前田敦子で有名な、映画『苦役列車』を観たので、読み返してみた。授業関係で『深夜の酒宴』を読んでいたら眠くなってきたのだが、これは一冊数時間で読めた。森山未來の演技は良かったと思うが、この映画を青春映画とか言っている日本社会は犬に食われろ。西村賢太の文章は酒飲みの千鳥足じゃなくて行進曲を思わせる。その意味でも「列車」が似合うのかもしれない。
今日は国語研究室のスポーツ退化い。日頃頭を使いすぎて体は退化しつつある国語研究室の皆さんですが、加齢的なわたくしに若さを見せつけたので、
こういう日は、鹿児島を描いても氷点下の長野みたいな絵になってしまう新海誠の『秒速5センチメートル』など観て心から寒くなるのはいかがでしょうか。
ナラトロジー的な観点からいっても良く出来た作品のように記憶している。語りというのは、語りの問題性が物語と絡んでその機能が悲劇的に露出してしまう場合がもっとも文芸作品の機能として輝くような気がする。それを自意識の球体のようにあらかじめ想定された場合はあんまり面白くない。
思うに、この作品は、携帯がない時代とある時代の変化をも描きこんでいるわけであるが、携帯電話(のメール)によって、遠距離恋愛などが特にロマンではなくなった時代において、ロマンを作るにゃ原則の則り、「遠くへ遠くへ」というわけで、宇宙の果てまで主人公を飛ばすとか、虚無での飛行を想像させるとか狂気すれすれのことまでやらすというのが、この人の作品の特徴であろう。といっても二つしか観たことがないが……。で、我々は、物理的な距離「感」が消滅する中で、ほんとの心的な距離感をメールの中に一生懸命探すようになってしまったわけである。だから、我々は下手すると、『秒速5センチメール』の結末を、遠距離恋愛のすれ違いの良くあるロマンスとしての悲劇ではなく、いまさっき目の前にいる異性とのすれ違いとか誤解がとけないことの悲劇として感覚しがちなのである。我々の世界は、ほとんど書簡体小説じみているわけであるなあ……
暑苦しくなるわけだ……