★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

こんな夢を見た

2013-08-06 08:39:34 | 文学


隣のガチャピンが「病院行った方がいいって」と本番中に言うので、タクシーに乗って地元の医者にたどり着いた。ひな壇が揺れている気がしたのである。タクシーの揺れはいつものことなので安心した。医者は、レントゲンをみて「右手がぶれて見えない」と言ったので、私も覗いたが右手は指揮するように動いている。「たいしたことはなさそうですね」と医者を一瞥して、やがてひな壇に帰ってきた。しかし隣のガチャピンと腕を組んで唄うときになって、スタジオが揺れ出したので、彼女と離れてみたら揺れが止まった。近くの椅子に触ったら、スタジオ全体が嫌らしく揺れ出す。そのがくがくというリズムは喘息の息づかいのようで、次第に、貧乏揺すりがそのまま大震災の主要動になってしまったような不愉快さを持っていた。近くのドアのノブをつかむと、メンバーたちが揺れでひな壇から全員転げ落ちたので、私は嫌らしく言い訳をして家に帰った。

もし野球部の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』をよ……まなくても大丈夫

2013-08-04 02:13:21 | 映画
以前にどこかで町山智浩氏が『もし野球部の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら』と『がんばれベアーズ』を比較して、というか後者を軸にして前者を酷評するのを聞いたことがあったのだが、『がんばれベアーズ』はよく観ていたにもかかわらず、『もしドラ』の方は観ていなかったので、なんともいえなかった。授業が一段落したし、35度以上が続く異常事態であるので、『もしドラ』も観てみた。

町山氏の云うとおり、この映画はアイドルの前田敦子を主演にしているけれども、アイドル映画の要件を満たしていない感じであった。前田敦子が輝く場面がほとんどないのは、彼女のオーラがアイドルのものではないこととはあんまり関係がなくて、そもそも映画制作者とシナリオにその気がないからだ。町山氏は、それを基本的にシナリオのせいにしていたと思う。ドラッガーからマネジメントを学んだくせに、マネジメントをまともにやっていたのは、みんなに慕われている病気で死ぬ元マネージャー(前田敦子はこの友人の代打なのだ)と背番号にしか興味がないとおぼしきガチャピンマネージャー2号の女であり、結局、前田敦子は最後までチームに溶け込んでいないばかりかマネジメントをやっていないのではないか、という……。それに、前田敦子の内面的な問題――本当は野球が好きなのに女の子だから高校生になったら出来なくなっちゃったという鬱屈を、どこかで解決するべきであったのに、それを彼女がマネージャーになることで解決しているとはとても思えない、という事情。映画を観た印象でも、一番印象深かったのが、前田敦子が元マネージャ(友人)の死に錯乱して「野球なんか大嫌いだ」とかいいつつ、試合前なのに職務放棄して逃げ出したので、彼女を全力のドタバタ走りで追いかけるガチャピンの姿なのである。さすがアイドル、足は鍛えられている。



弱小野球部は、見事甲子園に行くことになるのだが、その試合に勝った要因に、前田敦子が絡んでくることといったら、小学校の時に彼女がやっていた相手ピッチャーをだます作戦が、秘かに死んだ元マネージャーからへたれ遊撃手に伝えられており、それが実行されたという、そこにしかない。

しかし、私は、『がんばれベアーズ』を基準にすると、まるでキャラ設定もドラマもマネジメントもなっていないこの映画は、日本社会のマネジメント、というよりマネジメントとか言っている人間、及びその周囲を実によく表現しているのではないかと思うのである。つまりこうである。

昔は猪突猛進実績も上げました→しかし歳をとったのでマネージャーでその過去の栄光を代替しましょうという気になりました→マネージャーのやり方を知らないと思ったので、『マネジメント』(エッセンシャル版)を読んでみました→最初は少しマネジメントのまねごとをしてみました→なんか指示を出してくる人が現れたので、部下や周りはとりあえずがんばりました→途中からマネジメントしなくても勝手に組織が成績を上げはじめました→個人的な理由などで突然嫌いだとか言ったりいらいらしたりしました→めんどくさいので、周りが尻ぬぐいをしてました→組織を向上させる方法は、別に『マネジメント』を読んでない周りの人たちの方がよくわかってました→マネージャーだけが仕事をしてませんでしたが、組織は成績を出しました。→マネージャーなので、「あなたのおかげです」と言われました。→実際は群れの中のわがままな一匹がケアされただけなのであるが、たいして汗もかかずにマネジメントできた気がしたマネージャーは、そんな状態こそがマネジメントなのだと思い込み、しかもそれがなんだか支配にも似ているのでいい気分、やっぱり資本主義は最高だ、労働者は俺の言うことを聞ききやがれアカは弾圧しろ、と思うようになりました。

……『がんばれベアーズ』にマネージャーがいたか?たぶん昔のマネージャーは、部員の洗濯係お茶くみ係――お世話係だったけど、これからは「マネジメント」するのよ、というのが、この映画のイノベーション(笑)なのであろうが、町山氏も示唆しているのように、実際のマネジメントは、泥臭い自己犠牲がなければ成り立たない。前田敦子は、部員の内面にまで踏み込む必要があり自己の生活や欲望を犠牲にする必要があるのであった。しかし、我々の周囲では、マネジメントが実際のところ、部下やお世話係を効果的に支配する方法として解釈されていることをこの映画はよく示していると思った。『がんばれベアーズ』では人物のキャラが立っているのに、『もしドラ』でキャラが立っていないのは、マネジメントが人間を目的や顧客という観念の一部として扱ってしまうからなのである。ドラッガーが警告しているのは、寧ろ、そんな状態なのであるが……。たぶん。

追記)考えてみると、上の情けないマネージャーは、「歳をとったので」という人に限らない。寧ろ、「部下」に多いかもしれない。若人の脳内変換能力を侮ってはならない。自分の能力に気付かずにいきなり仕切り出す「既得権益への批判者」の自己愛マネジメントっぷりは、これから様々な作品で描かれ得ることになるであろうが……

阿霞

2013-08-01 19:59:47 | 文学


「それは、私の金ですから、昔お世話になったお礼にさしあげます。お帰りになったら、良い匹をお求めになるがよいでしょう。幸にあなたには先祖の徳が厚いのですから、まだ子孫に及ぼすことができます。どうかこれから、二度と節制を失わないようにして、晩年を送ってください。」
 景は感謝して帰り、その金のうちから十余金さいて、ある縉紳の家にいる婢を買って細君にしたが、その女はひどく醜くて、それで気が強かった。景とその女との間に一人の子供が生れたが、後に郷試と礼部の試に及第した。
 鄭は官が吏部郎までいったが、間もなく没くなった。阿霞はその葬式を送って帰って来たが、その輿を啓けてみると中は空になって人はいなかった。そこで始めて阿霞が人でないということを知った。

――「阿霞」田中貢太郎訳