★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

弁証法的残業論

2015-06-20 00:54:21 | 大学
昨日、細君が発見したのだが、「塾で深夜に帰宅」は、まるで「残業で深夜に帰宅」であると。わたくしは即座に、それは真実であるとみなした。

今日、ゼミで指導学生曰く、「それは先生、バイトで深夜に帰宅もおんなじです」と。これもまさに真実であると見做された。

そしてわたくしは、「疲れた頭が残る昼間は、適当な学びと人間関係の調整といじめ(協働)に費やし深夜になってさえた頭で個人作業をする→謎の満足感」、という上記三者によってもたらされている日本の現実に気がついたのである。これも、即座にゼミに生によって承認された。

まずいぞ……、日本危うし……


おにぎり家

パソコンで会議

2015-06-18 01:52:04 | 大学


今日から、教×会資料が、パソコンやタブレットに配信されてくる方式に変わって、わたくしもノートパソコンを持って臨んでみたのであるが――、わたくしは発見したぞ。

我々はパソコン画面を目の前にすると、職業病であろうが、なにをか分からんがやる気が出てきて、何かは分からんが何か自分が有能みたいな感じになってくるということを。この精神情況で×授会は如何なものであろうか。

自宅に帰って見つけたのが、https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20150616/185608/?SS=viewimage&FD=-160546951

おれたちは、こんなに欲しいとは言うとらんで……

國防文学論のあれ

2015-06-17 01:45:20 | 文学


戸川貞雄と言えば、もはや「日本文学報国会」のボス格とか、にもかかわらず戦後どっかの市長までやらかした文士というより、「小説吉田学校」の著者の父親といった方がいいだろうが、大正中期頃デビューしてきた、割といろいろな意味でお堅い作家だったのだ。とはいえ、昔、彼の大正末期の?「犬」という短編を読んで、「思わせぶるんじゃねえよこの野郎」と思ったのを覚えている。筋は忘れた。あと確か昭和19年出版の「武蔵坊弁慶」も読んだ気がするが、最後の立ち往生が描写がダサいと思った。こんな弁慶は、焼夷弾と原爆で吹き飛ぶ。

勉強の都合で、上の『国防文学論』などのぞいてみた。中盤のまとめられている作家論などを読むと、まああまりに内容はないにせよ、島木健作などを褒めていて、左翼になってれば、偶然、叙情的な農民文学などを書いたかもしれないと思わせる。

しかし、肝心の「国防文学論」とか「評論」とか「随筆」の部分が、あまりにあれであった。(無理にやっているのかなあ……)報国会のトップがこれではあれだっただろうなあと思うが、逆に有能でなくてよかったかもしれない。一ついえることは、国防文学というのが、過去の文学の否定が第一の目標であるようであり、「明日の世界の創造への寄与貢献」(←デター)が謳われているということであり――まあ、はっきり言えば、戸川の既得権益的「純文学」や時局便乗的商業作家へのルサンチマンだけが重要だったのではないかということである。そういえば、戸川といえば、芥川賞直木賞を既得権益的な何かとして攻撃し報国会小説賞だかを提唱したことがあったはずだ。(最近も似たようなこと言っていた大衆小説家がいたなあ――)たとえば、映画「オリンピア」を褒めた「ナチス文化礼賛」でも、「ハイル、ヒットラー!」とかほんとに言っちゃってるというあれなところは、さほど問題じゃない。「自由主義文化」主義者たちの「犬の遠吠え」はこの映画でやられたとか、古い奴らは「顔を洗って出直せ」とかいう台詞を言うことそのものが狙いなのだ。「宣伝に就いて」でも、中国人は「狼が来た」という噂を出しているうちに食い殺されるが、日本人は狼が来たら黙って撃ち殺すだろう、などと言っている。ここにあるのは、愛国でもなんでもなく、単なる怨恨である。

「隣組礼賛」では、台風で床下浸水に見舞われたときの、近所のおじさんたちの活躍を隣組のありがたさとして書いているが、一番力がこもっているのは、末尾の「日常生活から浮足立った運動は、かやうな場合クソにもならぬ」と言っている箇所である。床下浸水によって彼の鼻を撃ったであろうクソの香りを無視して、「日常生活から浮足立った」連中をクソ呼ばわりするとは、よほどあれなのであろう。

まあ、あれである。防衛いや防災対策ばかり毎日毎日クソみたいな報道を続けながら、インテリいじめに汲々としている我が国は、もはや戸川貞雄モードのあれであるといえよう。

Secret life of Eileen Burgoyne: Shy suburban lady who was actually a Cold War spy

2015-06-16 18:35:43 | 思想
http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/secret-life-eileen-burgoyne-shy-5855198

おばあちゃんの仕事は、スパイだった……。サブマシンガンなどが死後に出てきて……。

頼まれてもいないのに密告ばかりしている奴らよりはましであるな。まあ、密告したり恫喝したりしてるのに自覚がないすっとこどっこいの方が圧倒的に多いので、スパイには羞恥心があるタイプがなるのかもしれないが……

奈良井宿のお茶壺道中

2015-06-16 04:07:26 | 旅行や帰省


ずいずいずっころばし
ごまみそずい
茶壺に追われて
とっぴんしゃん
抜けたら、どんどこしょ

……たかが茶ごときで大変なことである。ところで安倍政権は、今回の件で選挙をやらかすかもしれんな……。選挙によって寧ろ政党が利益誘導的になって腐敗し、政治が利益分捕り合戦の様相を呈する。そうすると、そういう既得権益=成り上がりに対して「正義派」(そうみえなくても安倍氏もそうなのである)が現れ、選挙を今度は多数決の場として奪還しようとしてがんばる。で、二項対立になるととたんにやる気が出てくる神風みたいな、あるようでない民意の暴走で、破滅。政党政治の破壊→正義馬鹿の台頭→破滅といういつものパターンである。……しかし、我々の国の選挙にはなにか他に違ったものが付着しているような気がする。どうも、われわれは遊説だか道中の人たちに対してつい接待したり隠れたりしてしまう習慣があるのではなかろうか。

【告知】かがわ長寿大学

2015-06-16 02:07:57 | 文学
今年も、かがわ長寿大学でお話させていただきます。

●「罪と罰――戦後文学の戦争責任論から――」
7月7日(火)10:00~11:30
香川県社会福祉総合センター7階大会議室
http://www.kagawa-swc.or.jp/home/tyouzyu/04/daigaku2.pdf


●同じ題目で……
9月10日(木)10:30~12:00
丸亀市保健福祉センター
http://www.kagawa-swc.or.jp/home/tyouzyu/04/daigaku4.pdf





断片的なものの社会学

2015-06-15 05:17:14 | 思想


読んだ。
読み始めて、どこかで見かけた雰囲気だな、と思ったら、岸氏のブログを以前覗いたことがあったのだった。氏の文章はそんな風に記憶される性格のものである。
屡々「最近は大きな物語が失われて……」云々と、却って大きなを人にぶつけようという人も多いわけだが、問題は、いつもそんなところ――物語がでかいとか小さいとか――にはなかったのだということを思い出させる良い本だった。ところどころに、素晴らしく鋭い認識が書かれていて、それは、筆者が子どものときに拾った石のようで、平凡さに輝いている。要は、それを蹴っ飛ばさなければよいのである。しかし、これは、チェスタトン的なものとは異なるものだ。

岸氏は、「昼飯なう」には美しさがある、と本の冒頭近くで言っている。私は、美しくない、人のあごの動きは美しくない犬と同じだ、と思ったが、読み進めていくうちに、やっぱり犬のエピソードが語られていて、私の予想を上回る素晴らしいものであった。私は教育学や社会学で用いられる「物語」の概念にかなり批判的であるが、岸氏の用い方は本質的だったと思う。

たぶん、岸氏のすばらしさは、物に対するフェティッシュな感覚が強くないところだと思うんだが、どうであろう。断片的なものは普通呪物的なものに変化しがちと思うからである。

勇気と哀しみを与える本であった。

楽しい平和な生活を強調する精神

2015-06-12 23:10:29 | 思想


昭和22年の全日本宗教平和会議というものの懺悔文とかGHQバンス宗教部長の発言の記録みたけど……やっぱ、もっと日米ともにしっかりする必要があったのではなかろうか……

……バンス曰く「また神道においても見られる楽しい平和な生活を強調する精神というものが……」


懺悔道としての帝国主義

2015-06-11 23:01:00 | 思想


木曜日の授業では、責任とか神秘とか懺悔とか崇高などについて語っているのである。今日は、

桑島秀樹→大草原の小さな家→日本国憲法→エドモンド・バーグ→カント→ベートーベンの第9→マーラーの第2→プロコフィエフの「祝杯」→ショスタコービチの第9→吉田寛のワーグナー論→宇波彰→坂口安吾→原民喜→シュトックハウゼンの9・11発言→島木健作→志賀直哉→大江健三郎→磯村健太郎→恋空

というまるで、教科書的な授業になってしまったが、宇波彰のあたりで、「あー『懺悔道としての哲学』を語らなければー」と思いついたので、家に帰って読むつもりでいたが、ゼミで「あやかしの鼓」で頭をひねったので、すっかり忘れていた。というわけで、今読み直している。

この前「謝罪の王様」っていうのが上映されていた……が、今は関係ない。

というか、田邊元は謝る気が果たしてあるのかという……なんと、最後は、人類総懺悔を要求しておるからな……。とはいえ、田邊先生は戦時中から懺悔道を研究していたわけであって、謝る気だけは満々だったのだ。ただし、わたくしは、教育者の端くれとして、こう思う。言い訳ばかりしている人間の中には、ずっと謝っている気でいる人たちがかなりいる。特攻も真珠湾攻撃も盧溝橋事件も、何か懺悔の表現だったのかもしれないのだ。